2024年4月13日〜25日


4月13日


前世が猫だからか動くものがあると目で追ってしまうのですが、この癖のせいで通行人と異常に目が合います。

意外と忘れがちですが、僕ってこの世に存在してるんですよね。ワイプの芸能人みたいな立ち位置じゃないんですよね。「目が合う」という現象は、自分が徹底した観察者にはなれず、常に見られる側でもあることを突きつけてきます。この静電気のような痛みを感じながら、日々バチバチと歩いています。

『ぼのぼの』という漫画の33巻にだけ登場する「オリちゃん」というキャラがいます。木や石や土など見たもの全て食べてしまう謎の生物です。最初は赤ちゃんサイズだったのにどんどん体がデカくなり、最終的には大型巨人のようになってしまいます。森の動物たちは厄介がって、オリちゃんを山に帰そうとします。



オリちゃんはなぜ現れたのか? 出会ったと思ったらすぐデカくなって動けなくなって、一体何をしにきたのか? 謎の種族オリ族の習性が、後半になって説明されます。


その短い間にオリ族はこの世界を見て歩くんだ
この世界はどんなところか
どんな生き物がいるか
どんなことをして生きているのか
どんな楽しいことがあるのか
それを見て来るんだ

『ぼのぼの』33巻 p133  


オリ族の特性は、ただ世界を見て歩くことにあったのです。『ぼのぼの』はやたら人間めいた動物がたくさん出てきますが、オリちゃんも例に漏れません。本来動物は今を生きるのに必死で他所様を気にするヒマなどないでしょう。旅して見て何かを学ぶ、とは非常に高次元な欲求です。畢竟、人が人であるメリットは「見る楽しみ」を享受できる点だけではないでしょうか。

しかし、世界の何もかもを味わい尽くそうと思ったら、どうしても誰かと繋がったり、誰かを傷つけたりしてしまいます。繋がる分にはいいですが、面白がってヤンキーをジロジロ見てたら何見とんねんコラとキレられます。単なる視線に意味が生まれてしまうのは、悲劇としか言いようがありません。

見る楽しみを得た代わりに、見ることに乗せられるメッセージが増している。これもまた人間の背負う業ではないでしょうか。


4月18日

映画『ジョーカー』で、明らかに社会不適合者の主人公がコメディアンを目指すべくお笑いライブに行くシーンがあります。そこではスタンダップコメディアン(?)が小粋な下ネタでややウケを頂いていました。しかし主人公は何が面白いのか理解できておらず、周囲の観客とはズレたタイミングで変な笑い声を上げ、とりあえず「下ネタはいづも(原文ママ)ウケる」とメモを記します。

主人公の才能のなさをコンパクトにまとめた名シーンですが、僕はこれを見てから、下ネタが不自然な人にシンプルな恐怖を抱くようになってしまいました。ただジョークがスベってるだけならスベってるな〜で終わりです。しかしそこに「下ネタ」の要素が乗っかるだけで、どこか電車の中にヤバい人がいるときに似た、空間すら共にしたくないほどの緊張感を覚えるのです。極端に言えば、ジョーカーのように人をも殺しうる残虐性を感じるのです。


職場の偉い人の部署が変わるので、みんなでスケッチブックに一枚ずつメッセージを書くことになりました。囚人のマグショットのようにスケッチブックを掲げ、その写真を集めて動画にするようでした。

そこである新人女性社員が「ありがとうございました♡」と記していたのですが、50代男性上長が♡の部分を指差し「これってお尻ってこと?」と聞いていました。

女性側は「違いますよ〜ンモ〜」と植田まさしスタイルの返答をしていましたが、一部始終を見ていた僕はあまりの不自然さに汗が止まらず、会社のガラスをかち割ってでもこの場から逃げだしたいと思いました。

飲み会や海賊船ならまだしも、「オフィス」という文字通りオフィシャルな空間で性的なジョークを放つのは大いにリスキーでしょう。50年経ってもそういったルールが理解できず、ウケたいという動機のみで、特にウィットにも富んでない下ネタを差し出したのであれば、もう品性というより倫理観の欠如を感じてしまうのです。「また会えると思ったから」とかチョケてるヤツよりよほどナチュラルサイコパスではないでしょうか。道徳観念に問題がある方が出世しやすいようなので、会社の上位層にそのような人間が多いのは、ある意味理にかなっているかもしれませんが。


4月19日

珍しく他人に勧められて『市子』という映画を見ました。タイトル通り市子という女性が失踪し、その謎を時間を遡って紐解くミステリー的作品でした。

その中に出てくる登場人物で、やたら市子に対し「俺が守るから!」と詰め寄る男がおり、彼の存在が強く印象に残りました。端的に言うと、めちゃくちゃバカに見えたのです。

市子には、まあそれ自体が映画のキモになるくらいヘビーな事情があります。それを知った状態で「俺が守るから!」みたいな発言を聞いても、「守れるわけねーだろ」としか思えません。別に映画の登場人物に限らず、みんな他人からは見えない事情があるはずです。そんなの小学生でも分かるはずですが、何を全知全能の神になったかのように、「俺が守るから!」って……。嘘乙としか言いようがなく呆れてしまいました。

ただ無理やりに擁護するなら、そんなバカになってしまうくらい、市子のことが好きであるとは言い換えられるでしょう。程度の問題にしてしまうのです。「なんか俺が守るって言いたくなるくらい好きだわ!」と言えば何の問題もありません。

思えば、断定的なセリフは全部程度の問題すれば無責任のまま逃げられます。「絶対大丈夫だよ!」は嘘ですが、「絶対大丈夫だよ!って言いたくなるくらいお前のこと信じてる人間が世界に最低1人はいるぞ!」は本当でしょう。逆に考えれば、もし自分が「永遠の愛を誓います!」とか断定されても、「永遠の愛を誓います!とか言わせてしまうくらい他人を狂わせる力が自分にはあるのだなあ」と、程度の問題に変換して解釈するべきです。


4月20日

広告関係の仕事をしているのですが、この仕事の素晴らしいところは「やりがいのなさ」だと思います。

自分の関わった広告が街の一画にデデンと掲げられていたこともあります。見かけた同僚が写真を送ってくれたりもしました。しかし、それを見て得た感想は「だから何……?」でした。これで誰が幸せになるのか。誰の命が救われるのか。せいぜい市場経済がクシャミ程度の小爆発を起こすだけで、そのちゃちな躍動には何の意味もないと感じていました。

しかし同時に、自分がこの虚業具合に耽溺していることにも気付きました。仮に僕が医者やパイロットだったら、直接多くの人数の命を扱うことになります。それはとんでもないやりがいでしょうが、僕にとってはストレスでしかありません。労働って苦しいから労働なんです。自由を売って責任に変えて給料を得ているのです。

仕事にやりがいを見出したがるのは、その苦行に意味があると思い込みたいからです。宗教と同じです。やりがいとは神であり、神のためならどんな労働でも耐えられます。

そう考えると自分の仕事は、世間一般のやりがいとはかけ離れすぎています。衣食住にも関わらないし、直接何かの役に立つわけでもない。僕が1ヶ月仕事をサボっても、社内の人が怒るだけで社会には何の影響もありません。意味を見出せと言われる方が難しいです。俗世間を支配するルールから解脱したような心地よさを感ます。

僕の周りにも「なんか働いてはいるけどどういうシステムで金が発生しているかわからない」と語る人が何人かいます。犯罪だったらイヤですが、基本的には羨ましいです。責任なんか薄ければ薄いほどいいのです。

僕は無神論者なので、苦痛にエクストリーム解釈を施して快楽に変えることはしません。ただ苦痛を減らす(=サボる)術を練るのみです。最近は背後を取られない席を見つけたので普通に『高野さんを怒らせたい』とか見てます。


4月22日


ブルゾンふぇるみ


「だって、地球上に男は何人いると思ってるの〜


35億♪


じゃあ、地球が誕生してから今まで、累計では何人の男が存命していたと思ってるの〜♪


540億♪


そして、男の精子は1日に何匹作られると思ってるの〜♪


1億2000万♪


じゃあ、地球が誕生してから今までの男の平均寿命を50年だと仮定して、男は一生で平均何匹の精子を作ると導けるの〜♪


2190兆♪


じゃあ、地球が誕生してから今まで作られてきた精子の総数は、何匹であると導けるの〜♪


11垓(がい)♪


あと8260京匹♪」


4月25日

小学生の時の担任の先生の話をします。

当時「学校の先生」は親に匹敵するほどの権威を持っていました。従おうが刃向かおうがその引力からは逃げられない存在でした。しかし、今考えれば先生もただの会社員にすぎず、神性など1ミリもないことが分かります。そのフラットな価値観で過去を再評価することで、時に思いがけない解釈が生まれてきます。

その先生は大学出たての若いギャルみたいな女性でした。新人だから張り切っていたのか、毎朝黒板に黒板アートを書いたり、週1で大ボリュームのクラス通信を発行したり、合唱コンクールの練習に毎回付き合って2年連続優勝させたり、クラスのためなら時間を惜しまないタイプでした。そのおかげで生徒にも大人気でした。

また、授業参観を利用して、生徒が保護者にお手紙を読むという感動サプライズを仕掛けたりもしていました。少なくとも僕の親は多大なる好感を持っていましたし、保護者ウケも大変いい先生でした。

ただ、今思うと不思議な部分もありました。その先生は、説教のたびに、実在の凶悪事件の話を持ち出してくるのです。

クラス内で障害者に不適切な発言をした生徒がおり、授業を1時間潰してクラス丸ごと怒られたことがありました。生徒の人権教育という意味では間違ってないと思います。ただその内容を思い返すと、その時間の半分くらいは、神戸市の児童連続殺人事件の話をしていました。殺戮のようすをWikipediaくらい詳細に話すので、その描写ばかり鮮明に覚えていますが、説教の内容と事件がどう関連していたかは忘れました。

他にもクラスの誰かが「死ね」と言ったとき、先生は説教の中で、「人間って、簡単に死ねちゃうんだよ!」と語り出し、詳細な首吊り自殺のやり方を説明しだしました。裏を返せば小学生に簡単な自殺のやり方を教えていたわけです。ただ、首を吊ったあとの人間がどうなるかもお得意のイラストで説明していたので、ショック療法で自殺の抑止にはなっていたと思います。

明らかな奇行ですが、当時の自分は特に違和感を抱いていませんでした。「よく分からないが今は怒られているので、不快な話を聞かされても仕方ない」と思っていました。

その先生は時おり、「私は本当は少年院の先生になりたかった」とこぼしていました。実際なりかけたことがあるのか、少年院のエピソードトークを豊富に有していました。「少年院の授業中に消しゴムを落としても、生徒は拾ってはいけない(絆が生まれたら困るから)」といった地下トリビアをたくさん教えてくれました。


放置したドレッシングが水と油に分離していくように、思い出を放置していると「今考えるとあれは……」という要素がたくさん浮かんできます。時代を経るにつれて歴史上の人物の評価が変わっていくことがありますが、僕は100分の1くらいのスケールでそれを経験しています。まあまあなボリューム生きてきた旨みが徐々に出てきているようです。







サポートは生命維持に使わせていただきます…