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顔の無い者が死ぬということ

SNSで繋がっていた人がある日突然亡くなった、という事を2回ほど経験した事がある。

1度目は病死。その人のアカウントにある日突然書き込まれた「家族のものです」という文から始まったその知らせは、精神が中途半端に成熟していた当時の私にとって衝撃的だった。何となく兆候はあった。その人は数カ月前に倒れ、入院したという話をしていたから。『車いすで廊下爆走してたら病院のひとに怒られた。』そんな話もしていた事を覚えている。

2度目は自死。書き込みの節々から繊細な心の持ち主なのだろうな、と分かるような人だった。恐らく全てが嫌になったのだろう、写真をこまこまと載せ「実況」しながら最期の時を迎えていた気がする。気がする、というのは思い出そうとしても肝心な所がもやがかかったように思い出せないからだ。その人の書き込みが途絶えて数日経った頃に、やはり『家族のものです』から始まる文がそのアカウントから出て、全ては終わった。

この2つのアカウントは今に至るまで更新は無い。

現実では会った事の無い、けれど「知っている」人が消えていく事にずっと怯えている。顔が見える人が遠い所に行ってしまう時とは全く違う苦しみがある。「私が何かしていたら、話でも聴いていたら、もしかしたら」という後悔のような気持ちが湧いてくるからだと思っている。

死なないでほしいという傲慢な願いがそこかしこにある。
私が消えるまで遠くに行かないでほしい。皆とやりたい事がたくさんがあるから。

死にたいなんて言わないでほしかった。
元気ですなんて言わないでほしかった。

どうしようも出来ない、独りよがりな祈りである事は分かっているけれど、それでも私はあなたの人生のエンドロールまで見届けたい。

最近ずっとこの事を考えている。理由は分からない。正直分かりたくもない。

この言葉は誰に向けたものではない。

あの子は私を見つめている。

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