近世日本のベンチャー企業家・角倉了以伝 ~了以の偉業 その価値を問う

時は慶長19年、京都・鴨川の水を引き込み、洛中の二条から伏見までの人工運河・高瀬川の開削工事を完成した了以は、舟運開通に沸く幕府の役人や工事関係者、見物に来た京都の町衆を見渡しながら、静かにこう呟いたといいます。
「この運河を誰が造ったなどということは、すぐに忘れてしまうやろう。」「それでいい。」
「この運河の完成で便利になり、潤う人々が増えればそれで充分本望。」 
あれから約400年、この高瀬川を誰が造ったのか?知り語る人は京都の人ですら少ないのです。

保津川下りの創業も含め角倉了以はなぜ?これだけの功績を残しながら、日本の歴史の中で未だ無名の存在なのでしょうか?
 角倉了以・・・本名吉田与七。天文二十三年(1554)に京都の嵯峨に生まれました。その年は戦国末期で、上杉謙信と武田信玄が川中島の合戦を繰り広げ、織田信長が清州城を奪い、毛利元就が備中で勢力を広げた、群雄割拠の頃。後に剃髪して了以を名乗りました。

父宗桂は足利将軍家の侍医であり、当時、最高峰の明の医学を習得した随一の医者。まさに医家の名家であり、多くの史料が現存しているものの、了以においてはこの生年すら定かではなく、没年からの年齢をさかのぼり推察したもので、正式に記したものは見つかっていないのです。詳しい史料も乏しく、歴史学者・林屋辰三郎先生が書かれた「角倉了以とその子」また息子の与一の生涯をまとめた「角倉素庵」がすべてだといわれる所以でもあります。当時では、武将や為政者ではない商人の記録が史料としての残されることはないのが普通で、まして角倉家は江戸期に何度も火事に見舞われ、家に残る書き物も焼けて現存しないというのが通説になっているのです。
 しかし、当時の角倉家は室町時代から将軍家の医家として名士であり、三条家や土御門家、山科家といった公家との付き合いも深く、また大覚寺や天龍寺といった由緒ある寺院に土倉を構えていることなどから、その影響力と存在感は公家や武家にも並ぶものであり、事実、付き合いのあった公家や社寺の書状や日記の中に角倉一族の名を残しています。なのに、了以に関しては五十歳以前の記録がないのです。まるで、意図的に記録が消されているかのように。
 そこで了以が展開した事業や偉業は、日本の商業史に残るビジネスモデルを作り上げた人物なので、もう一度俯瞰的な視点により、現存する間接的な書状や日記、さらに断片的な事業記録等を収集し、各専門分野の研究者や関係者による調査や学術研究を相互に関連づけて議論することでひも解き、データベース化を図るプロジェクトが、京都にある国際日本文化研究センターで立ち上がりました。それが「角倉研究プロジェクト」で私も共同研究員として参加しました。
史料が現存しないことで排除していく歴史学的否定ではなく、現存している間接的・断片的史料から推測する肯定的な視点を含めた両面から、了以像を浮き彫りにすることに挑戦し、了以の残した偉業が現代にどのような価値を見出せるのか?そしてその価値を世に問いたい。これは了以の遺産・保津川下りで生きる者としての使命であると考えているのです。

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