Phil Collen 自伝 抄訳
2014年に出版された、フィル・コリンの自伝「Adrenalized」から、スティーヴ・クラークのアルコール依存症とその死に至るまでの一部を抄訳しました。文章の大意に影響のない範囲で、細かい部分を補足及び省略してあります。
ある日、朝8時頃スティーヴが電話してきて、そっちへ行ってもいいかと尋ねてきた。
「見せたいものがあるんだ。」
こんな早い時間にもう起きてるなんて変だな、と思いながら、こちらへ来るように言った。
僕らは小さなステュディオ・アパートメントの隣同士の部屋に住んでたから、彼はすぐに僕の部屋にやって来た。
玄関に現れた彼は、おもむろに手を差し出した。
僕は、その手が彼のコントロールが効かないぐらい震えているのに気が付いた。彼は、このところ毎日こうなのだと、バーに行って酒を飲み震えを止めているのだと話した。
「皆と会う時に僕が普通の人間に見えるようにするにはこの方法しかないんだ。」と彼は認めた。
僕はこれが深刻な事態であることはすぐに分かったが、同時に、彼が初めて何かがおかしいことを他人に打ち明けることができたので、少し安心もしていた。あまり大きな期待をしてもいけないが、これが前向きなステップになるだろう、と思っていたのだ。
それからほどなくして、僕は恐ろしい夢を見た。
クリフ・バーンスタインが電話をよこし、スティーヴが死んだと告げるのだ。夜中に目が覚め、ベッドに横たわったままあまり遠い未来のことではないのかもしれない、という思いが脳裏をよぎった。
その何週間か後、今度はパリの病院からスティーヴが電話をかけてきた。アルコール中毒の症状で病院に搬送されていたのだ。レコーディングを中断し僕はロンドンから急いでパリへ飛んだ。病院に辿り着いたとき、彼は点滴に繋がれうなだれていたが、羞恥心からであろう、僕の顔を見ようともしない。アルコール問題を抱えていることを僕に打ち明けたばかりだったからだ。
「スティーヴ、僕は君のためにここにいるんだよ。皆も同じだ。でもまず、君がアルコール問題を抱えていることを自分自身で認めなければならない。」
皆、スティーヴの問題を知っていたが、対処法は知らなかった。
普通は飲みすぎると酒を飲むことを止めるだろう。
僕でさえできたことだが、スティーヴには無理だった。それから僕ら関係者は全員、スティーヴの周囲で酒を飲んだり勧めたりすることを止め、ジョーと僕は何回かスティーヴと共に断酒会のミーティングに参加したこともあったが、本当にスティーヴに必要だったのは集中リハビリプログラムだった。彼が自らそこに辿り着くことはなかったが。
バンドの内外の人間たちは、何か彼のために行動を起こさなければならない、と悟り始めていた。-それも、今すぐに。
1989年の冬、ピーター・メンチからの電話。
「スティーヴが大変なことになった。意識不明のままミネアポリスのバーで発見され、救急搬送された!」
僕らは急いでミネアポリスへ飛んだ。僕、ジョー、マット(ランジ)、トニー・ディチョッチオ、ピーターとクリフだ。
集中治療施設に辿り着いた時のことを思い出すと、患者はまるで「カッコーの巣の上で」の登場人物のようだった。
医者が僕らにスティーヴへの手紙を書くようにと言い、更にその手紙を読むようにと告げた。
全員が輪になって座り、僕が最初に手紙を読んだ。
「スティーヴ、お前は俺たちをどれだけ怖がらせる気なんだ。」
彼は煙草を手にして、それを吸い終えた。
マットは彼を強く温かく抱きしめた:皆かわるがわるスティーヴを抱き締め、どれほど彼を愛しているかと伝えた。涙が溢れ、エモーショナルな光景でもあった。
医者が「このレベルのアルコール依存症の患者の70%は事故かオーバーユーズで亡くなります。」と説明し、これが非常に深刻な状況であることが裏付けられた。さらにスティーヴの血中アルコール濃度が0.59であることを知らせてきたが、僕らにはその数字が何を示すのか理解できなかった。Led Zeppelinのジョン・ボーナムが亡くなった時の血中アルコール濃度の数値が0.41であったことを聞かされるまでは。
1991年1月8日の朝、クリフから電話を受けた。
「フィル、」
彼は告げた。
「悪い知らせだ。スティーヴが就寝中に亡くなった。」
それは正に、僕が見た悪夢そのものだった。
彼は少し前に肋骨を折り、痛み止めを服用していた。医者には痛み止め服用中の禁酒を言い渡されていたが、しかし彼は構わず酒を飲み続けていた。
検死官のレポートによると、脳の浮腫が死因とのことだった。
僕はショックというよりも恐ろしさいっぱいになり、全員、精神的に大きなダメージを受けた。リックの事故とそこからの回復があり、もうこれ以上の試練は訪れないだろうと思っていたのに、今度はバンドの一人が亡くなった。まだ若かったから誰も死に対する準備などなく、不老不死の精神さえあったのに。
スティーヴが亡くなり、僕はもうバンドにいたくないとさえ思っていた。彼の代わりなんているわけがない。スティーヴ・クラークはバンドにとって欠くべからざる存在だった。創造的な部分においても、ファミリーとしても。
つまり、兄弟が亡くなったからといって、代わりの誰かを家族に加えるわけにはいかない。僕らは何年もの年月を一緒に過ごしてきた。そうしようと自ら「選択」し、血の繋がりよりも濃い絆で30年以上の年月苦楽を共にしてきたのだ。
ある朝、ジョーと僕はキッチンにいて、僕はジョーに言った。
「もう終わりだ、これ以上続けられない。」
仲間の1人が逝ってしまい、この一団は壊れてしまったのだ。
ジョーは言った。
「そうか、それで何をしたいんだ?」
配管工になろうかな、と言うとジョーは僕を説得し始めた。
「配管工にはなるな。俺たちはスティーヴに対し借りがある。このレコードのために皆で書いた全ての曲のことだ。彼は今でも俺たちの一員じゃないか。少なくとも、彼の名誉のために、始めたことを最後までやり遂げよう。」
それで、僕はジョーが言った通りのことをした。
仕事に打ち込んだのだ。スティーヴの死から何週間か後スタジオに入り、スティーヴがデモに遺した彼のパートを聞いて覚え、僕のギターで忠実に再現して弾いた。スタジオには僕とスティーヴの二人だけがいて、スティーヴのパートを弾く時は彼の亡霊が僕に乗り移ったかのように、何度も何度も繰り返し弾いた。まるでスティーヴがまだ生きているかのようだった。
我を忘れ、スティーヴの魂を一音一音に込め、スティーヴが誇りに思ってくれるよう、熱心に音楽を創造し続けた。
その間、僕は感傷的になることはなかった。沢山の壁を作り、スティーヴの死に向き合わないよう、受け入れないようにしていたから。
約3カ月後、ロサンゼルスの高速道路101号線で僕は渋滞に捕まっていた。
不意にカーラジオからRolling Stonesの「Waiting On A Friend」が流れて来た時、突然涙が溢れ出してきた。車を脇道に止め、僕は赤ん坊のように泣きじゃくった。涙が止まらなかった。
この時、初めて僕は親友の死に向き合えるようになったのだ。
それから今日までずっと、僕はスティーヴと何ごとも起こらなかったかのように話をしたいと思い続けている。それはごく自然なことで、それでいいのだと思っている。
バンドの大事なメンバーを喪うという初めての経験を、皆で乗り越えようとしていた時、ある問題が僕を苛々させ始めた。
スティーヴの葬儀が執り行われることが発表されると、突然、皆がスティーヴのことを口にし始めたー全く知らない連中から、ほんの顔見知り程度の連中もだー僕はそんなヤツラにはウンザリだったから葬儀には行かないことに決めた。
スティーヴが助けを必要としていた時には、ごくわずかの親しい人間しか彼の周りにはいなかった。なのに、彼が亡くなるや否や、誰もが「俺はスティーヴを知っていた」と言い始め、彼の依存症に手を差し伸べることもしなかった癖に、ロックスターの死に乗っかりたがる。
当初、ベリルとバリー(スティーヴの両親)はプライベートな家族だけでの葬儀を行うつもりだったが、一般葬になることを彼らが受け入れざるを得なくなり、葬儀はおべっか使いの連中で溢れかえることとなった。
それは僕の、葬儀には行かないという決意を確固たるものにした。スティーヴが僕を支持していることは、ちゃんと知っているよ。