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私の証

またひとつ、ひとつと増えていく。否定する人が多いこの世の中で、自らが自分の首を絞めていく。だから間違いなく、生きにくい。



私の体に初めて刻まれたのは中学3年生の時。「俺のスケや。モンモン入れたる。」などと言われて、年に数回しか会わない実父に高校進学祝いに刻みこまれた。父とのペアルック、あなたの子であるという証。気持ち悪いにもほどがある。けれどもやっぱり、どうやっても消えないもの。どこまででも付き纏ってくる。どこにいてもあいつと繋がってるんだ、という黒い黒い塊を拭い去ることは出来ない。そして、ひた向きにマブいものだと思い込む。唯一の救いは、その場所が背中だったということだけ。現代は物凄く発達した時代であって、隠すものなんていくらでもある。だから、本当に信じられないけれど、普通に高校の体育にも出られたし、部活もできた。今日の日本の技術には感謝しきれない。私自身、学校の関係者に知られるのはお勤め以上に屈辱な事なので、必死に必死に神経を張り巡らせていた。授業中のひとつの動作さえも、周囲のの目線に気を巡らせて意識していく。制服がないのも有難かった。でも、黒のタイツしか履けない、ボトムスはロングスカートかパンツ、夏もカーディガンは手放せない。高校3年間、右手のミサンガは絶対に外さなかった。

これ程までに生きにくくなる原因の多くは、自分自身の責任にある。女子高生だった間にいくつ新しく増えたことだろうか。毎日が不安定で、罪悪感に苛まれる度に贖罪の感覚で体に刻みこんでいた。そんな私が通っていた高校はキリスト教主義で、《 今誰にも言えないけれど、もう身動きができないような罪、もう死刑にしてほしいような罪に苛まれてしんどい人にとっては、今、招かれている物語です。そのことを見抜いて、身代わりになって自分たちのために死んでくれたイエス。「お前を裁き、お前を赦す」といってくれる存在があります。》という学びを与えられて、その瞬間に恍惚を覚えても、やはり私の罪は許されないと実感している。その上、その象徴としての十字架は重みのないものに見えてしまう。日々の生活の中で神様の働きかけに感謝を添えると共に、結果として、自分の罪は自分で裁かないといけない。一生背負っていかなければならない。だから、昨日も新しく体に刻み込まれた。

最悪なことに、もう私のすぐ近くには同じような仲間や師匠さんがたくさん繋がり合った世界で、そこが本当の居場所のようになってきている。誰にも批判なんかされない。週刊誌を書くのに没頭しているような記者さん達でさえも、そこまで踏み込むとお金の圧力がかかることを知っているから、面子を失うことはない。敵は意外といない場所ではある。しかし、抜け出せないのも事実。違約金が高すぎるのがひとつ。人生を全てかけて返せるかどうかだろう。そして、私たちの多くは商品であるから、人前に出品する前にたくさんのお金が投資されている。だから、私がどれだけ頑張っても偉いのは私の能力ではなくて、その場所を買い取った側の方々。立つ場所がなければ何にも私たちは始められない。こればっかりは、「この空気を吸えば分かる。」としか言いようがないけれど、圧力なのか依存なのか、ある意味守られているから "そんな事に脳ミソ使う方が馬鹿だ″ と思ったりもする。一方で、投資金額を上回る売上を獲得すれば母神対応に急変する。けれども、それは嬉しいことばかりではない。たくさんの人脈がなければ生き残れないし、見た目とか魅力とかを問うよりも、人間の情というものを引き離してどれだけ自分を利用して裏を取るか、という話。普通の見方なんて考えていられない。世間に報道されているような物事も、本当は、私たちのお陰で動いてたりする。何かの物事が起こると、主体の人にしか注目がいかないように操られるから、誰も気づかない。それがきちんと統一して、悪事さえも綺麗なストーリーに変換して報道されているから、すごいなと感心してしまう。そして、良くも悪くも地位のある人は、別の場所に既に招かれている。誰もが羨む素晴らしい役職に。しかし、私たちには用意されていない。褒められもしないし、批判もされない。ただただ、一般社会でそんな感じの子に見せないという所が1番大切だったりする。外から眺めて見ると、芸能界で「あの子そんなかわいくないのに、なんであんなにブレークしてるんやろ?」っていう感じに似ていると思う。色々なお偉い様方からたくさんの情報が入ってくるが、一般の真実はすべて偽物だ。そして“#metoo”も、そんな社会の綺麗な装飾になりつつある。本当に得をしているのは誰だろうか。どこにいても人間の本質は悪だとしか信じられない。( もし、気を悪くされた方がいるならごめんなさい。) 私もそうしないと生きれない空気感を日々実感している。

今日、尊敬している方に、『 メンタル面を治すことは東大に入ることより難しいです。それより、メンタルを下げられないようにあなたの仕事をして下さい。』と言われた。"もっと強くなりたい″ 私はいつもそう思っていたけれど、そこに時間を費やすことが、甘えだったと思い知った。仕事は来年度の予定も入っていく。逃げる時間もたまには必要。でも、その時間仕事は溜まってくるということを忘れてはならない。やるべきことは、私に頼まれた仕事でもあり、それは期待されているということ。この場所を与えられたことに感謝しなければならない。ひとつひとつを食べていかなければならない。自分自身の本質を知って、コントロールする能力が求められている。芋を引くなんて絶対許されない。それが、この場所での相応しい生き方であり、私の証としての生き方であると分かってきた。







私はここで、自分の黒い黒い塊の屈辱を晴らしたいのではないし、知ってほしいわけでもない。「 生きにくくて可愛そうだよね。」という声も求めてはいない。たくさんの経験が重なりあって、この文章自体に、ハッピーエンドの匂いはしないし、狂気的な部分がある。書き手である私も、読み手も、これを唯一無二の真実だと思い込んでしまうから、常に危険なものに転化していく可能性を孕んでいる。そして、身の危険をも感じる。それでも私は、記そうと思った。ただ、刺青は普通の生活が出来ないのは間違いないとは思う。就活は出来ないし、ましてや昼職では働けない、結婚にも支障がでる。絶対やらない方に注力すべきだ。そして、学校関係者の方々や、たくさんの優しさを注いで下さった方々にも聞いてほしい。


「 私との関係を踏み止まるべきです。」


私にとっての確かな出発点はここにしかなく、こんな人間もいることを知る事には価値がある。