反どん行 - 全然書き終わらないので簡略版としてゴミ出し

5月に私は「反どん行」なる文章を書くと挑発的な文言で宣言したのだが、結局執筆に行き詰まり、長らく元ネタのドイデみたいにHDDの裏に放置していた。このままだと「ねずみの批判」すら受けないまま存在ごと忘れてしまう気がするので、ツイッターに収まる範囲で提出してしまおう。

……と思ったら全然収まりきらない(2184文字)ので、Noteに投棄することにした。

1. どん行の背理

どん行兄貴(以下敬称略)の原理主義批判は端的に言うと「原理主義者は昔の自分が親しんだクッキー☆をクッキー☆の本質だと思い込んでいるだけだ」「クッキー☆に元々原理なんかないから自由な創作・多様性を心掛けましょう」といったところである。原理はないとは言っておきながら自由な創作や多様性という原理を掲げていることについては置いておくとして、どん行は「初期のクッキー☆には原理など無かった」ことを示すことで原理主義を否定しようとしたのだが、ここに背理がある。

どん行が本当にクッキー☆には原理がないと思っているのなら、クッキー☆の原理について語る連中を批判する必要はないはずだ。よってどん行の批判は本質的に「クッキー☆に原理がない」ことをクッキー☆の原理としている。

しかし「初期クッキー☆に原理はなかった、よってクッキー☆に原理などない」という理屈は、それ自体が初期クッキー☆を根拠とした原理主義である。いわば「反原理主義の原理主義」であろう。

どん行は自分が批判する原理主義者と同様に、自分が親しんだ(我々からしてみれば大昔の)クッキー☆をクッキー☆の本質だと思い込み、それに従わない人間を原理主義的に批判しているようにも見える。例えば、どん行はクッキー☆が「アングラ」だとされるようになったのは「ハセカラや嫌儲」の影響だと言うが、そのような批判はクッキー☆の変化に「自分が置いてけぼりを食らう」ことへの恐怖に基づく、原理主義的な批判ではないのか。ここで「原理がないこと」が原理であるはずのクッキー☆において「なぜ」アングラな風潮が広がったのか、という疑問を見過ごしていることがどん行の限界である。(ここでアングラの定義と歴史から論じようとして詰まった)

また、どん行による原理主義者の世代認識もおかしい。どん行は原理主義者を「RIM一家」からクッキー☆に親しんだ世代と見做したが、それは赤くらげみたいな昔の原理主義者には当てはまるとはしても、空前のブーム期以降にク☆堕ちした者には当てはまらないはずだ。(ここでクッキー☆の世代論にまで話を広げすぎて頓挫)

2. ネオリベラリズム下における自由と多様性

どん行は「反原理主義の原理主義」として自由な創作、多様性という理念を奨励するが、ここにも問題がある。どん行の主張する自由とは、ネオリベラリズムの自由である。

ネオリベラリズムとは、それ以前の資本主義(「リベラリズム」)が中途半端に保っていた社会的中間項を解体し、人間を、社会的規範を以て自らを律する「市民」としてではなく、環境が許容する程度の自由行動を許される、いわば「動物」として管理する、現代における資本主義の形態である。ネオリベの自由とは、SMAPで言うと、「花屋の店先に並んだ」花たちがオリジナリティを発揮し、買われることを目指す自由である。

ネオリベ批判は東西・左右を問わず世に溢れていることだから深くは語らないが、重要なのは、ネオリベによる多様性の称揚が、逆に画一性を生む現象である。ネオリベは全ての人間に選択の自由を与えることによって、人間に「環境メタ」になることを強いる。画一的な就活生や婚活女子の自己アピール、韓国の整形アイドル、なろう系小説、ポケモンの対戦パーティーはその一例である。

(どん行の「私は東方が嫌いでした」について。自由・多様性を理念としていたFLASH文化が東方に敗北したというが、東方だって伝統文化を自由に題材にするという点で多様性文化と全く同じである……という風に脱線)

(どん行の著作権批判について。どん行は著作権は個人の創作技術の向上によって商業コンテンツと共に陳腐化する、という風なことを楽観的な口調で論じていたが、これもまさしくネオリベである……これも長くなったので省略)

(どん行の世代にはわからないだろうが、私たちの世代は上の世代が押し付けてくる多様性の称揚に反感を持っている……という風に論じたかったが長すぎて中断)

3. 原理の再構築

どん行が言う自由な創作は、クッキー☆がボイロ、BB劇場がなろう系、ニコニコがYouTubeと化した未来に帰結するだろう。どん行はクッキー☆のジャンルとしての細分化を多様性の発揮だと喜んでいたが、これはクッキー☆が界隈として衰退していること、ネオリベが勝利し続けていることの証左でしかない。

ただし、希望はないこともない。クッキー☆原理主義の再構築である。どん行が批判するクッキー☆原理主義の正体は、欺瞞的なネオリベ的自由に対する空想的、しかし真っ当な抵抗である。批判すべきは彼らの原理の稚拙さであって、原理の有無ではない。

クッキー☆を「自由」な「社会」として保つためには、空想的原理主義者が唱えるような重苦しい規範と、反原理主義の原理主義者による自由な社会解体を止揚した、新たな原理主義が求められる。

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