最期の夢

 死ぬ少し前から、夢を見続けている。
 なるほどそれはそうかもしれないと、その発想は自分の中にストンと着地した。誰が言っていたかも覚えていない。つい最近のような気もするが、大昔のようにも感じられる。

 曾祖母が亡くなったのはたしか小学2年生の頃だったと思う。そのとき曾祖母は92、母はまだ28の年だった。僕は直接最期のときを見届けたわけではないが、病室に着いたときには先にいた母が声を上げて大泣きしていた記憶がある。
 その曾祖母の葬式の時、僕は最後にその頬に触れた。その冷たさと滑らかさに驚いたこと、何か切なげな音楽が流れていて、また涙が出たことも覚えている。ただ、その時の曾祖母の表情は僕の記憶には残っていなかった。

 去る6月の大叔父の葬式、その眠りについた顔はよく覚えている。半分ほど口を開けて、笑っているわけではないのだが、仏頂面でもない。それはどことなく優しげで、少なくとも僕には安らかな眠りだと思わせる表情だった(もちろん死化粧のおかげかもしれないが)。
 ここ一年半ほどその世話をしていた母の話を聞くと、だいぶ認知症が進んでいたようだ。深夜の四時に大叔父が僕に「このあいだ晩飯を食べにいこうって約束したけれど、いけそうにない」と電話をかけてきたこともあったくらいだから、その事実に疑いはない。
 認知症になると最近の記憶を忘れてしまい、大昔のことを頻繁に思い出し話すようになると聞いたことがある。では大叔父は最期にどんな夢を見ていたのだろうか。大叔父はまるで僕を本当の孫のように扱ってくれ、とても優しく接してくれたが、彼の大昔の記憶の中に僕はいたのだろうか。

 そして今僕は、また最期を見届けようとしている。もう16にもなる愛犬だ。半年前に大叔父の件で帰った時にはまだ元気そうだったが、今回の帰省の時にはもう動けないようで、いつも寝ていた毛布の上で丸くなってじっとしていた。ふくよかだった体ももう骨張ってしまい、初めてその細い肋骨を手で触って感じた。

 今朝から水も飲まなくなってしまい、いよいよもう遠くはないようだ。名前を呼んでも返事はなく、どこか遠くを見つめている。その様子が、どうにも夢を見ているように見えてしまう。目を閉じているわけでもないのに、なぜだか彼女自身が、現実ではなく記憶の渦の中に身を置いているように見えるのだ。

 身勝手な願いだが、もし最期の時に夢を見るのならばその夢は安らかであってほしいし、そこに僕がいたら嬉しいなと思う。僕は餌やりや散歩もたまにしかやらなかったしたくさん構ってあげたわけでもないが、顔くらいは覚えてくれていたら、それを思い出してくれていたら幸せだ。

 僕は最期に誰の夢を見るのだろう。今はまだ検討もつかないが、きっとまだ続く人生の中で世話になる人がたくさん出てきてくれたら、それは最高のカーテンコールだろうと思う。

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