夜の地下鉄

あの日、僕は失踪した。

 すべてを投げ出してどこか遠くへ逃げてしまいたい。

 あなたは、そう思ったことは無いだろうか?ごく一部の楽天的な人間を除けば、誰にだってそういう瞬間はあるものだ。僕は、ある土曜日の夜、失踪を決意した。理由はありきたりで、仕事のストレスに耐えきれなくなったためだ。気付いた時には僕は行くあてのない電車に乗りこんでいた。

☆ ☆ ☆

 当時の僕は、組織ピラミッドの最底辺に位置するソルジャーで、毎日 朝から深夜、ときには朝から「朝」まで働くのが日常だった。カロリーメイトやからあげクンを頬張りながら、四六時中モニターとにらめっこする。眠気でまぶたが重くなればメガシャキを飲み、ブラックガムを4枚同時に噛んで鼻の奥をスースーさせる。自宅にはシャワーを浴びるために帰り、着替えて歯を磨いたら近くのコンビニでレッドブルとユンケルを買ってそそくさと会社へと向かう。そんな無茶な日々を送っていた。

 その日も休日出勤で、会社に着いたときからすでに眠たくて眠たくて仕方がなかった。連日の疲れが溜まっていた。しかし幸いなことに、今日の仕事が片付けば明日は休みだ。誰にも邪魔されることなく思う存分寝ることができる。僕はユンケルの中でも「ここ一番」用の栄養ドリンクをクイッと飲み干し、ユンケルのCMでのイチローのドヤ顔をちらっと思い浮かべてから早速仕事に取りかかった。

 生産性もクソも無い、もうろうとした意識の中、僕は最後の気合いを振り絞ってエクセルと向かい合い、なんとかその日終えるべき仕事を終わらせた。時計を見ると夜の12時を回ろうかというところだった。ああ、やっと終わった、これでベッドに飛び込める、今なら終電にも間に合う——。

 そう思った矢先、メールボックスに上司からメールが届いているのを見つけた。1時間ほど前に送られてきたものだ。要約すると「状況が変わり、君が今日作った資料はゴミになった。明日また新たな資料を作り直して欲しい」という指示だった。

 珍しいことでは無いのだが、その時の僕は冷静に受け止められなかった。もういい、すべてを投げ出してしまおう。メールを見た途端、僕はこれまで経験したことのない強い衝動に駆られたのだ。

 僕はそっとPCの電源を落とし、そっとオフィスを退出した。外は雨が降っていたが、傘をささずに最寄りの駅まで歩き、その勢いで適当な電車に乗り込んだ。もちろん何の計画もなかった(計画性のある失踪のほうが希だ)。深夜なので交通手段に限りはあったが、それでもまずは電車でできるだけ遠くへ行こうと思った。会社からできるだけ遠くへ、遠くへ。

 もう引き返せない。いったいこの失踪がどれだけ問題になるかわからないが、もう何がどうなったって構わない——。電車の窓越しに無数の高層ビルを眺めながら、僕はひとり静かに覚悟を決めたのだった。

 途中で東京メトロの東西線に乗りかえて千葉の西船橋までやってきた。ここが終点だ。まだまだ余裕で通勤圏なのだが、とりあえず少し遠くには来れた。明日また遠くへ行けばいい。なによりも眠たかったので、初日はここで一晩明かすことにした。

 これから当分は自宅に帰らずどこかへ旅行に行ってリフレッシュするつもりだったので、そのリサーチができるよう、パソコンがある駅近のネットカフェを選んだ。フラットシートの席に着くと、半径10m以内のどこからかおっさんの豪快なイビキが聞こえてきた。

 さすがに気になって眠れない。僕は下着姿で横になり、明日からのことを考えてみた。

 パスポートが手元に無いので、とりあえず昼の飛行機で沖縄にでも行こうかな…。青い海でイルカさんやカニさんと遊んでのんびりしよう。そのあとパスポートをなんとかしたら、やっぱりヨーロッパをちゃんと回ってみたいな。パリでエッフェル塔を見たり、アムステルダムで木の靴を履いたりして。それから次は、昔の友人を訪ねてオーストラリアに行きたい。エアーズロックを見るときっと自分の小ささを実感するんだろうなぁ。あと大自然といえば、サハラ砂漠にも一度は行ってみたいな。満月の夜に砂漠のど真ん中で歌って踊るのも気持ちがいいんだろうなあ。それからそれから……。

 次々に行ってみたい場所が思い浮かぶ。しかしキリが無いので、そこで夢想をやめた。なにしろこれからは自由の身だ。時間ならばたっぷりある。しばらくはお金のことも気にしなくていい。また明日起きてからゆっくり計画を立てればいいじゃないか。記念すべき失踪第一日目はここまでにしよう。

 そこまで考えると全身にどっと疲れを感じ、一気に眠気が襲ってきた。目をつぶると、すぐにおっさんのイビキが遠くなっていった。

☆ ☆ ☆

 耳元でスマホのアラームが鳴り響いた。

 僕は反射的にボタンを押してアラームを止めた。その9分後、アラームが再び鳴り、僕は再び止めた。その9分後、またもやアラームが鳴り響き、僕はボタンを連打して止めた。

 なんなんだ、このスマホは…。まるでバカの一つ覚えのようにアラームを鳴らしやがって……。

 うっすらと目を開け、スマホの画面を見る。6時38分だ。暑いなー。あれ、ここはどこだ…?ああ、そうか、ネットカフェか。きのう失踪して流れ着いたんだったな。うわっ、汗をかいて気持ち悪い。

 僕は背伸びをして首を回したあと、仕方なく昨日の服を着てトイレに行き、ドリンクバーでオレンジジュースを飲んだ。5時間ぐらいは眠れただろうか。おかげで頭はかなりすっきりしていた。

 もう一度、落ち着いて状況を把握してみる。僕は昨晩、一大決心をして失踪を始めた。今日が二日目だ。特に計画らしい計画は無い。今日何をするのも僕の自由だ。よし、引き続き失踪を続けよう。

 すぐに会計を済ませて外に出た。天気は昨夜の雨から一転、これ以上ない晴れ模様に変わっていた。お腹が減っていたので近くの松屋に寄って朝定食を食べた。とってもお腹がすいていたのでソーセージエッグ定食をご飯大盛りにして追加で牛皿もつけた。

 満腹で松屋を出ると、失踪生活を続けるために適当な電車に乗り込み、適当な駅で何度か乗り換えた。そのうち見慣れた駅に到着したので、適当にそこで降りた。自暴自棄な僕は適当な出口から駅を飛び出し、当てもなく街をほっつき歩いた。すると、偶然にも目の前に自宅が現れた。

 せっかくなので中に入り、適当にシャワーを浴び、たまたまその辺にぶら下がっていたスーツとシャツに着替えた。失踪するにしても小綺麗にしておいた方がいいだろうと思い、ヒゲを剃り、歯を磨き、髪をワックスで整えた。

 すると、スマホに着信があった。会社の上司からだった。ああ、あのオタンコナスか…。すっかり忘れていた。なにしろ、もう僕の人生には関係のない人間だからな。着信を無視しようと思ったが、どうせなら最後に文句の一つでも言っとくかという気になり電話に出た。僕は荒々しい語気で次のように言った。

 「あ、はい。はい、そうですが。え?あ…、はい。…はい。…すいません。はい。はい。もちろんです!わかっています。はい、すいません。すぐに行きます。はい、失礼いたします」

 さて、失踪を続けよう。僕は玄関を出るとドアの鍵をしっかりと閉めた。「失踪」というと色んな場所を転々とするイメージがあるが、僕の場合は自宅だけを拠点にしていた。自宅というアジトには、驚くほど高性能な爪切りやマイナスイオンが出るドライヤー、それから買い置きの缶ビールなどもあり、当面住んでみるのも悪くないと判断したためだ。


 それから月日は流れ、今も変わらず僕は失踪生活を続けている。

 その間に、僕は結婚し、やがて子どもも生まれた。住むところは少し手狭だなと思ったので、別の場所へと移動した。アジトの移動は僕を捜す誰かにバレないよう慎重に行った。具体的には、区役所で転出届けを出したり、割れ物を新聞紙で包んでダンボールに入れたりして、できるだけ失踪っぽくなくカモフラージュした。

 とにかく、これを見てる人には安心してほしい。見ての通り、僕も家族も元気にやっている。大丈夫。うん、本当に大丈夫だから、どうか心配して探したりしないでほしい。

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