映画『首』を観て。

 北野武監督(以下監督)は自身でも言うように、芸人としては「裸の王様に裸と言い続けて」きた。『首』。この映画は、歴史、戦国時代、美談、英雄像などの「裸の王様」を引っぺがして、「裸ですよ」と示そうとした映画だと思った。「裸」を、この時代に、よりマッチさせた「首」と言い換えて。

 斬首、戦闘、切腹、男色、農村、賭博、芸者、身体障害者、影武者、庭園、南蛮人、弥助。当時にタイムスリップし、時代を俯瞰して眺めてきたという感じで映画の全編を通し、全く飽きなかった。私は、監督はリアリティにこだわる監督だと思う。例えば『ソナチネ』でのエスカレーターでの銃撃シーンでは、たまたま乗り合わせた客やボーイが銃撃に巻き込まれる。『その男、凶暴につき』でも銃撃に居合わせた女性が巻き込まれる。「確かにそうなったら、こうなるよな。リアリティの感覚を表現するのが上手いな」と思って監督の作品を観てきた。特に説明は無いけれども、映画の画面に映す。物事を俯瞰して的を射た風刺ができる監督のことだから、従来のドラマの描き方では物足りないのであろう。よって、今回の生々しさもリアルに近いものだと、私は信じる。また、それは歴史の時代劇ストーリーにも言えることだ。事実に対し、教訓、美談、大げさ、娯楽、名場面などの要素を加え加工して時代劇になる。今回は、そんなドキドキハラハラする心揺さぶる、すなわち観客が期待するようなストーリー性をあえて排し、極力、加工前のリアルの状態を映像化し、時代を再現したかったのではないだろうか。もちろん映画であり、リアルと言っても監督の仮定するリアルである。また、空中での殺陣のシーン、妖気的なシーンなど最低限の脚色もされてはいた。ただ、基本的には「リアルな感覚」を再現し、伝えることに焦点を当てていたように感じる。要するに、「450年前にタイムスリップして、事実を映してきたらこうでした。2時間にまとめて、遊び心で少し加工はさせてもらったけど」という映画なのではなかろうか。

 ここで、映画で表そうとした「リアルな感覚」とは何だったか、内容にもう1歩踏み込んでさらに考えてみたい。

 まずは「当時の肌感覚」。明智は、現代人目線で一見、真っ当な人間に見えるが、罪人を何とも思わず鉄砲の練習台にしている。処刑は見世物にされ、処刑後は残り物がないか民衆が押し寄せる。身体障害者が神格化されている。出世欲のあるものは皆、首を求めなんでもやる。茂助は首のために友人を殺す。首を取るのが男のステータスとなる空気。また、焼かれた家と惨殺された家族を見たときの場面で、うなだれて嘆くと思いきや大喜びする。ラストシーンは首検分のため、首の山が出来ているが、出来上がった製品のチェックをするごとく、当たり前の様に首の検分作業が進んでゆく。

 次に「男色は当たり前」という感覚。武将同士の男色関係の風習があることは初めて知った。映画では信長も明智も、当たり前のように考えている。そのような、人間関係、生理的な理由が糸を引いて各武将の状況判断に影響していたとは十分考えられる。歴史にせよ事件にせよ、出来事は、しょせんは当の本人にしか分からない。『首』では武将同士の愛憎で政治判断が下される場面が見られ、この映画の特異さを際立たせていた。なお、監督の1990年の作品『3-4X10月』の中で、監督が演じるやくざの兄貴が弟分を本気かウソか、犯そうとするシーンが出てくる。『首』は構想30年ということで、当時より監督は男色という生理現象を意識していたのであろう。

 そして、組織の「上の人間のテキトーさ」の感覚。信長は、幹部、特に明智に暴言と暴力を振るいたい放題。仕事の成果ではなく、愛憎の相手と見なされないことへの不満をぶつけているようにも見える。しまいには、さんざん幹部に発破をかけ仕事で利用しておきながら、最終的に幹部を皆、潰すつもりでいるテキトーさ。秀吉陣営(秀吉、秀長、黒田)では、部下たちを手のひらに載せて弄ぶ様子が描かれる。また相手方の武将が切腹することで手打ちをする場面では、武将が律儀に、(従来の時代劇さながら)切腹作法に基づいて、切腹の機会を設けた秀吉に感謝しつつ、真面目に自害しようとしている。一方、秀吉陣営は仕方なく立会い、「まだやってんの?」「早く死ね」と遠くから突っ込みを入れるテキトーさ。上記武将が、自害することでかばおうとした主君である安国寺は、その決断に武将を抱いて(従来のドラマさながら)大泣きするが、途中、後ろ向きにあかんべーをする。一芝居打っていただけというテキトーさ。徳川陣営(家康、本多)は、常に家康の影武者を用意し、影武者がやられてもやられても人形を据えるかのように取り換える。影武者を何とも思っていないテキトーさ。上記面々は、眼前で起きていることと対照的に、コントと思われるほどやりとりが呑気である。支配欲、承認欲などが強い性格を持つ人物が、年齢と共にその組織のトップレベルになると「テキトー」になる感覚は、太平洋戦争の昭和を経て、今でも残る変わらない感覚だと思う。私も長年、日系企業にいたため、この感覚は分かるし、この感覚に物凄い嫌悪感を持っている。しかし、そのような、テキトーの萌芽となる性格が無ければ組織では上に上がって生き残れないというリアルでもあるのかもしれない。映画では、忠義という美談や上の人間の言うことを信じる人物は、途中で終わりを迎えている(上記切腹をする武将、森蘭丸、無抵抗の影武者の面々)。すなわち、映画はここで、後世の人々から偶像化され、日本史の教科書に載っているこの時代の人物たちの裸の姿を映している。そして、今でも変わらない、「上の人間のテキトーな感覚」を伝えるため、映画では信長以外は現代語で、現代風の雰囲気の会話が行われていると考える。
 なお、上の人間の「テキトーさ」は監督の作品でも度々見られる。例えば『キッズリターン』において。ヤクザの若頭が、行きつけのラーメン屋の小僧に「元気か、父ちゃん元気か」などと機嫌よく声をかけ、小遣いを与え、その小僧が感化され組員になった途端、コロッと拳銃を渡し、替え玉にしてしまう。その若頭が殺され、抗争になるかと思いきや組の会長は、すぐ相手と手打ちにし、会議後そんなことはすぐに忘れ、すぐにゴルフの予定調整を始める。主人公の同級生が就職した会社で、若手数人が上司に説教をされるが、説教後、気に入られている一人だけ上司に昼食に呼ばれる。このように、監督は自身が「上の人間」、であるにも関わらず、引いた視線を持ち続け、冷静に上の人間のテキトーさを皮肉っている。

 最後に、「無意識の感覚」。監督は、上記のテキトーさもそうだが、無意識を意識化して表現するのが上手いと思う。先の武将が秀吉陣営前で切腹をし、介錯をお願いした場面。最期というところで武将目線の映像になり、秀吉陣営が移動を始めている(誰も切腹を見ていない)様子が映され、無意識に「あれ?」と言葉を発した所で、首を落とされる。自分が思うほど誰も自分のことを気にしていなかった感覚。テキトーな連中に対し、忠義を貫いた末の虚しい感覚とやり切れない感覚。事実はこんな感覚なのだ。「よくこういうシーンを思いつくな」とつくづく思う。

 曽呂利のセリフに有る「みんな、あほやなぁ」が、この映画をまとめている。監督自身が天下人とも言える存在になる過程で、多くの人間を見てきて、日本人の本質が見えてきたのであろう。『首』は、監督が一世を風靡しているという点で歴史上の人物に肩を並べたからこそ入れられる、歴史へのツッコミなのだ。また、現代人に対し、美談や空気、既存概念に沿って思考停止するのではなく、自分の頭で常に考えて生きなきゃだめだ、と言っているようにも感じた。

 なお、北野映画好きの身としては、北野映画の初期作品に出演する、矢島健一、柳憂怜、芦川誠、寺島進、勝村政信が起用されていたのもまた見所であった。

(書き始め7/20、書き終わり7/27)


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