「進路は自分で選ぶ!」            ーベトナム語という選択から

 進路はどの様に選ぶべきか。誰でも悩む問いである。皆さんが今後、学校や仕事を選ぶのであれば、若い内に選択肢をたくさん知っておくことで、より自分らしい生き方に繋がるのではないかと思う。今回、ベトナム語という進路を選び、通訳翻訳として活躍する女性に仕事や進路について伺った。在日ベトナム人は多いが、日本人には未だなじみの薄いベトナム語。そんなベトナム語を軸に活動する先輩の姿を通じ、進路選択の手掛かりを得て頂ければ幸いだ。 

ベトナム社会主義共和国 (外務省HPより)

 ベトナム語通訳の現場
 
2023年8月18日(金)18時過ぎ、都内で仕事を終え、著者は急いで東京・お茶の水へ向かった。映画企画「日越外交関係樹立50周年記念 ベトナム映画の現在 plus」に参加をするためだ。会場はアテネ・フランセ文化センター。130席のミニシアターがある文化施設である。当日は最高気温34・6℃の真夏日。18時過ぎとはいえ晴れた日で、未だ日も出ており、道中の暑さが堪えた。19時上映開始のベトナム映画「大親父と、小親父と、その他の話」(2015年、Phan Đăng Di(ファン・ダン・ジー)監督)にギリギリ間に合って、観賞した。

 筆者は偶然ベトナムに住んで仕事をしていた時期があった。ベトナム語は、6声調、日本語では表せない母音、発音の長短などを、音楽を奏でるように再現して発音しないと、伝わらない。いつか上達して話せるようになりたいとの願いを秘め、意地で勉強を続けている。「少しこの言葉が聞き取れた」など自己満足も交えつつ映画を観賞した。観客は50名ほど。平日金曜日の晩としては想像以上に多い印象。終演後、来日していたファン監督のQ&Aコーナーがあり、何気なくそのまま聞いてゆくことにした。ここで筆者は、自己満足が吹き飛ばされることになる。

ベトナム語

 日本人による、ベトナム語通訳の現場を見たのは思えば初めてだった。それはまるで150kmの球を打つプロ野球選手のように思えた。映画は過去のベトナム社会の事実を基にした、難解で斬新な映画だった。そのため、監督の発言や観客の質疑応答も自然、複雑な内容となる。映画の社会背景を理解した上で、目の前で発せられるベトナム語を日本語に、日本語をベトナム語に即座に変換して、監督と観客を繋げなくてはならない。私も問いを投げてみた。「この映画は当時、ベトナム国内ではどの様な反応がありましたか?」「実はベトナム国内では配給が出来ず、広く公開はされませんでした。しかし、ベルリン映画祭にも招待頂き、フランスでは配給されたんです。ベトナムが急速に発展する中で生じた問題を描きました。観た方の反応は両極端でしたね」。監督の横に控えた、アオザイ(ベトナム人の民族衣装)姿の日本人女性が、メモを速記しつつ即座に通訳をしてくれた。観客からの質問と通訳は続く。「プロって凄いな」と、純粋に思った。コーナーが終わり、監督が最後に観客に向けて言った。「アキバさんに拍手を」。

ベトナム映画の現在plus  (プログラム)

 ベトナム映画字幕
 2023年11月上旬、博多にある大濠公園でベトナム語通訳翻訳の秋葉亜子さんにインタビューをさせて頂いた。現在博多で、夫と大学生の子供の3人暮らし。大学の講師をしつつ、ベトナム語の通訳翻訳の仕事をしている。秋晴れで、とても涼しく、心地よい天気の日であった。

秋葉亜子さん

 「仕事は、映画関係が一番好きです。映画祭の通訳は刺激があって楽しい。でも、映画字幕を付ける翻訳の仕事が地味だけど一番好き。ベトナム映画は日本への配給が少ないので仕事量的に多い訳ではないですが、自分の中での比重はとても大きいです」。以下、秋葉さんが字幕で携わった主な日本公開作品を挙げてみよう。

<映画字幕>*セリフや文字情報を訳し、字幕にする仕事。
『走れロム』(2021年、Trần Thanh Huy(チャン・タン・フイ)監督)
『雲よりも高く』
(2017年、Lương Đình Dũng(ルーン・ディン・ズン)監督)
『ベトナムを懐う』
(2017年、Nguyễn Quang Dũng(グエン・クアン・ズン)監督)
『超人X。』
(2015年、Nguyễn Quang Dũng(グエン・クアン・ズン)監督)
『漂うがごとく』
(2009年、Bùi Thạc Chuyên(ブイ・タク・チュエン)監督)
『地球で一番幸せな場所』
(2008年、Stephane Gauger(ステファン・ゴーガー)監督)
『モン族の少女 パオの物語』
(2006年、Ngô Quang Hải(ゴー・クアン・ハイ)監督)
『無人の野』(1979年、Nguyễn Hồng Sến(グエン・ホン・セン)監督)*クラシック映画
『愛は17度線を越えて』(1972年、Hải Ninh(ハイ・ニン)監督)
*クラシック映画

『走れロム』パンフレット
『走れロム』シナリオ採録

<字幕監修>*別の字幕翻訳者が英語、仏語などから付けた字幕をベトナム語目線でチェックする仕事。
『草原に黄色い花を見つける』
(2015年、Victor Vu(ヴィクター・ヴー)監督)
『夏至』(2000年、Trần Anh Hùng(トラン・アン・ユン)監督)
『季節の中で』(1995年、Tony Bui (トニー・ブイ)監督)
邦画のベトナム語字幕監修も務める。

『夏至』カンヌ映画祭上映作

 他に短編などを含めると字幕の仕事で携わった作品は計60作以上に上る。韓国ドラマのベトナム版リメイク『太陽の末裔~Love in Vietnam~』(2018年、連続テレビドラマ)の日本語字幕も付けた。ベトナム映画の歴史の造詣も、自然と深くなった(『現代ベトナムを知るための60章第39章映像』共著)。
 
 学生時代から映画自体は好きであったが、それで字幕の仕事を志望していた訳ではない。1990年に、福岡での国際映画祭の企画(1991年からスタートした、アジアフォーカス・福岡国際映画祭。2021年に幕を閉じる。)が出た際、ベトナムの映画も招待されることとなった。その当時、日本にはベトナム語字幕を付けられる人材はおろか、翻訳をする人材もいなかった(台本を翻訳し、字幕に短縮化する工程が必要)。そこで(字幕は英語字幕翻訳者の方が付けたが、)前提となる翻訳をやって欲しい、と諸先輩方から声が掛かる。「映画の字幕翻訳って興味深いな」と、その時に気が付いた。そして、この時の英語字幕翻訳者が講師を務める、映画の字幕翻訳のスクールへ通った。当然ベトナム語はなく、英語の字幕翻訳であったが。「字幕は制約が多いのが難しいです。1秒間に日本語4文字しか入れられないので短縮が必要。配給会社によって、使って良い漢字や表現の制約もあり、言葉選びも難しいです」。言葉のみならず、映画の時代背景、専門用語、監督の意図や世界観を理解し、くみ取らなくてはならない。納期も短い。セリフや歌詞、文字情報(看板など)を1枚の字幕ごとに区切り(ハコ書きという)、1作1200枚ほどのハコを1日で200枚、6日間で作るのが目安だ。ご自身のデビュー作は『ナイフ』(1995年、Lê Hoàng(レ・ホアン)監督。日本国内のアジア映画祭でのみ上映)。
 
 ベトナム語の道へ
 最近、日本の至る所で訪日外国人を見掛ける。中でも在留ベトナム人の方の数は、2023年6月末時点で52万154人と、中国に次ぎ国籍別では2位(法務省出入国在留管理庁)。私たちの日常の生活圏にも溶け込んでいるベトナム人。色々な場面で見かけることも多くなっている。しかし、ベトナム語は、日本では未だマイナー言語の位置づけである。秋葉さんはどの様にベトナム語の道を歩んだのだろうか。
秋葉さんは1966年、東京都で、教員のご両親のもとに産まれた。時代は丁度、ベトナム戦争が長期化し、日本でも反戦運動が行われていた時期と重なる。「両親も反戦運動を支援していました。私が子供の頃、絵本『ベトナムのダーちゃん(作:早乙女勝元)』が自宅にあり、読んでいました」。ベトナム戦争で、目の前で母親を失った少女の話だ。平和が訪れていた日本の子供にとっては衝撃的な読書体験となったはずだ。他にも、いわさきちひろ著『母さんはおるす』『戦火の中のこどもたち』とベトナム戦争を取り上げた絵本を読んでいた。これら絵本との出会いがご自身に大きく影響を与えた。

絵本『ベトナムのダーちゃん』 (初版1974年)

 高校生となり進路を考える時期となった。語学+教員免許、というキーワードは頭にあった。大学を調べる中で、「東京外国語大学なら、語学はもちろん、英語と社会の先生になれる。楽しそう!」と閃いた。入試前に、受験する語学学科の希望を決めなくてはならない。「英語は自分で出来るし、他に出来る人も多く、自分がやらなくてもいい。折角だからニッチな言語を選ぼう」。そして、幼少期の記憶から、ベトナム語専攻のあるインドシナ語学科を受験することにした。母親にベトナム語専攻を志すことを告げると、とても喜んでくれた。そして受験を経て入学。

東京外国語大学(2023年11月学園祭にて)

 インドシナ語学科は、まとめて30人入学し、入学後に専攻語学を決めるという方式だった。最も人数の多いタイ語専攻を決めていた同級生からタイ語に誘われたが、ブレること無くベトナム語を専攻。ベトナム語専攻の同期は9人。有志のツアーに申し込み、2年次(1987年2月)に初めてベトナムの地を踏んだ。「ドイモイ(社会主義一党独裁の下での市場経済導入を中心とした経済再建政策)1年目でした。ハノイは真っ暗。外国の人と話すことにも警戒している印象でした。ホーチミンも自転車が多く、素朴でした」。他方で、直情的に「とにかく留学するんだ!」という決意はしていたものの、1979年のベトナムによるカンボジア侵攻と、それに端を発した中越戦争以降、日越間の留学が途絶える状況が続いていた。留学の夢を抱きつつ、大学は卒業。それでもベトナム語を続けるべく大学院に進学。「ベトナム語がとても好きでした。運のいいことに、専門性に関して自分が凄く合っていました。もっと学びたいという気持ちにはなっていましたね」と当時を振り返る。大学院で1年間さらにベトナム語を磨いた。留学の機運が出てきた1990年4月より、漸くハノイへ留学をすることが出来た(1年間。大学院は休学)。

2023年ハノイ再訪時の秋葉さん(ホアンキエム湖にて)

 当時、日本に住むベトナム人は少なく(1990年在留数6233人)、日常生活でベトナム人を見かけることは無かったが、一転ベトナム人に囲まれる日々が始まる。留学先はハノイ総合大学(現:国家大学)。留学生は少なかった(資本主義国、社会主義国からの学生合わせて25名程)。よって最初の半年はベトナム人教授とマンツーマンでベトナム語を勉強。後半は「語学文学科」へ入れてもらいつつ、自身の大学院でのテーマ「モダリティ(~よ。~ね。など、会話での感情表現)」を研究。ベトナム林業省(現:農村開発省)の宿泊施設2階が資本主義国出身留学生に貸し与えられた。男女共同、シャワーも男女共有の生活であった。「日本人、オランダ人、アメリカ人留学生が住んでいました。人数も少なく、皆で助け合いです。折角なのでベトナム語で会話をしていました」と笑顔で振り返る。「宿舎に着いてすぐに自転車を買う様に言われ、案内人に連れられて自転車で学校へ向かいました。でも帰りは放置されて、道が分からなくなってしまい、いきなり帰れなくなりました」。「13歳の乗るバイクに、自転車ごと激突されました。公安(警察)からは『ケガもないし、子供だから大目に見てやって欲しい』とお願いされました」。どれもこれも大切な思い出だ。

秋葉さんの著書。 「昔は発音を自分で録音していたけど、今は多くのツールがある!」     と活が入る。

 ベトナム語通訳翻訳として
さて、留学を終えて帰国した秋葉さん。ベトナム語と日本語が出来る人材は当時から少なく、アルバイトの通訳でも重宝してもらえた。大学院卒業後は、ベトナム語を活かして、そのままフリーランスの通訳になる道を選択した。ドイモイを経て、ベトナムでビジネスチャンスを狙う商社からの通訳依頼が多かった。一つの仕事が口コミとなり、次の仕事へ繋がって行った。その流れで初めて携わった映画の仕事は奇しくも、映画『ベトナムのダーちゃん』(1994年、日越合作)撮影現場での通訳だった。
2023年は日越国交50周年ということもあり通訳をするイベントが目白押しだ(ちなみに日本が国交を結んだのはベトナム戦争の続く1973年9月21日。当時の北ベトナムとの国交を指す)。ベトナム映画祭(8~12月)、第36回東京国際映画祭(10月)、福岡市総合図書館「ベトナム映画の二人」(10月)、第24回東京フィルメックス(11月)。通訳の仕事では出来る限りの準備は行い、本番後のおさらい、知識の整理も欠かさない。

ベトナム映画祭(大阪会場)

 名乗るときは、ベトナム語通訳翻訳という肩書を自然と付ける様になった。「間に立つことで双方を助けていることに自分の嬉しさが有るからかな」と分析する。フリーランスの仕事は、「しがらみがなく、MY WAYで出来るのが良い。自由。信用が得られれば生活は出来る」。もちろん全てを自己管理することが前提だ。
秋葉さんがプロとして仕事をするにあたり大事にしている心構え。それは「誠実」と「信用」。映画字幕翻訳であれば、「私はいなくて良い。字幕を読んでいたと思われなくて良い。映画を観て面白かったと思われれば良い」。通訳であれば「依頼者にとっても通訳されている方にとっても、この人なら大丈夫、と信用される必要がある。話している人にギャップやストレスを感じさせない通訳をしている時が一番嬉しい。『くろこ』みたいな感じです」。

福岡市総合図書館  ベトナムのクラシック映画を多く収蔵。

 進路を考える若い世代へ
「本当に成りたいと思っていれば、(適職は)やって来ると思います。その時に、出来ないと思って挑戦しないことはしないで欲しい。失敗してもいいからチャンスが来たら『えいっ』とトライする。その時のベストもしくはベターと思われる選択をして欲しい。自分で考えて自分で決めることが大事。自分で決めれば自分で責任を取れる。人に聞いて決めた場合、『あの人のせいだ』となるのでそれは良くないと思う」。

 「ベトナム語は楽しいから続けている。いつまで経っても知らないことがあり、それを知り続けられるのが刺激になりますね。若い方が私を見て、『あ、なんか大人になるのも悪くないんだな』と思ってくれたらいいなと思います。何とかなると思って欲しい。何とかして欲しい。そんな力を付けて欲しい。今諦めていることがあるなら、諦めない方向に転じさせてあげたい」。


東京フィルメックス


 進路は自分で選ぶ
 今回の取材を通じて学んだ進路選択のポイントを以下まとめてみた。
 
・直感を大事にする。
・自分の気持ちに、とことん正直になる。
・「えいっ」と飛び込む覚悟と度胸。
・その上で出てくる興味や課題に、また向き合う。
・「何とかなる」という気持ち。
・好きなことを追求する意志と努力。
・オンリー・ワンの強み。
・素直で誠実。
・周りに流されず、自分で決断する。
 自分で進路を選ぶ場合、前頁に挙げたポイントは、どんな進路にでも共通して必要なことだと思う。一見当たり前のことだが、これらを兼ね備えるのは容易ではない。進路を自分で選ぶには、選べるだけの力を付ける必要があるのだ。ここで、秋葉さんから頂いたベトナムの言葉を紹介したい。
 
Có còn hơn không.
(コー コン ホン コン)
 
「何もしないより、少しでもした方がマシ」という意味だ。まずは出来ることから、自分で進路を選ぶということを始めてみてはどうだろうか。そして進路は自分で選んで欲しいと切に願う。

大濠公園の湖をバックに。ハノイのホアンキエム湖に似ている。


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