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書評『不可逆的なダメージ』アビゲイル・シュライアー著—われわれはジェンダーイデオロギーを克服することができるのか

匿名のインターネットによる書評。トランスジェンダーに懐疑的で「ジェンダーイデオロギー」という言葉を使う人物にもかかわらず、本書にあまりにがっかりしていたので面白かったから訳した。

https://substack.com/@duckwalk

文化的な火種というのは、つくづく気まぐれで、誰もが予想だにしなかったところから現れるものだ。それは人生の妙味、運命の悪戯である。

例えば、男女平等権憲法修正案は、どう見ても文言レベルの修正だった。第27次改正。そのひとつ前の改、正が、選挙権を21歳未満にまで拡大したのと同じプロセスで可決されただけのものだ。
1971年、時の大統領リチャード・ニクソンはこの修正を全面的に支持しており、およそ反対の声が上がるとも思えなかった。「および女性」をいくつか追加するだけの、ごくごく簡単な修正である。議論の余地もない眠たい話だと、誰もが考えていた。

とんでもなかった。

ライデン瓶、虎の尾を踏む、蟻の一穴……この種の現象を表す言葉は枚挙にいとまがない。とるに足らない作品や事象が、時に予想だにしないかたちで、社会に変化や不安をもたらす。
第二のフィリス・シュラフリーは、今日にでも現れるかもしれない。「緑色革命」(あるいは「ヒルビリー・エレジー」)のような本の出現を、われわれはついぞ予測できたためしがないし、これからもずっとそうだろう。
そんな本が、今日までに数えきれないほど書かれてきたし、今もなおどこかで生み出されようとしている。いくらか目新しいストーリーが含まれているものの、それらは決して許されない発想でもなければ、特別斬新だったわけでもない。
それでいてこれらの本は、この国の仕組みを根本的に揺るがす政治運動、ひいてはその後の合理化の支点となった。インテリなら誰もが一度は憧れる夢を、作家たちは叶えた——自らのアイディアが、巨大で即効性のある社会変動を巻き起こしたのだ。
たった一冊の——彼らの経験を綴った数百ページの——本が、人々の心を揺るがした。ラクダの背骨を折る最後の一藁。

だから、一部の作家がキャリアという名の稲妻を追うのは当然のことなのである。ライデン瓶を携え、機を逃さず、誰も語りえない真実を語ることができれば、自分もまた飛躍的に成長できると信じている。その賭けに勝てば、見返りは計り知れない。思い描いた通りの社会変革を、揺るぎない大衆という後ろ盾に支えられながら、最速で成し遂げることができるということだからだ。
作家は、“普通のアメリカ人”を、彼ら自身の中にある——深く理解しているが言語化できていない——真実に目覚めさせることができる。これは多くの実例と成功体験を備えたブルーオーシャンだ。この不条理に満ちた時代に、何人かは必ず通る道だろう。悪い勝負ではない。

しかし、アビゲイル・シュライアーは、2020年に出版された著書『不可逆的なダメージ:少女たちを誘惑するトランスジェンダーの流行』によって、それを成し遂げることはできなかった。
その一因は、氏が自分の主張以上に大衆迎合的なポジションを取ってしまったことにある。「少女たちを誘惑する」は、ややレトリックに走りすぎたきらいはあるものの、多くの人が首肯する内容である。イェール大学の同窓会ランチでは受け入れられないかもしれないし、それはそれで問題なのだが——われわれの社会をめいっぱいドラマティックに解釈しても、ジェンダーに関する進歩的な理解は、まだまだ限られた世界でしか通用しないものだと言わざるを得ない。
本書のテーマが多くの人にとって「遠い世界の真実」である以上、「われわれの真実」を暴くものにはならないのである。そうした情勢は、氏をこの論点に駆り立てた要因であるにもかかわらず、同時に議論をひどく貧弱なものにしている。

シュライアーは、社会におけるジェンダーにまつわる議論に光を当てるどころか、読者の中にあるであろう先入観や、根拠のない思い込みの中にそれを隠してしまう。あけすけで主観的なレトリックを保ち、統計や科学を避け、n=1の逸話やドラマ、そしてそれが生み出すであろう衝撃の側に立つ。
あまりにも個人的で感情的な対立により、暗礁に乗り上げたトピックを扱うにもかかわらず、シュライアーの本は分断線上を一直線に、支持者のミットの中へと飛び込んでいく。それは本書が公言していること——「真実を語る」機会を失わせるものだ。

だからといって、シュライアーが必ずしも嘘つきだとは思わない。本書を読むより前から、筆者は氏の示したジェンダーにまつわる見解にほぼ同意であった。われわれは同じように、未成年の子どもに対する「ジェンダー・アファーマティブな」ケア——患者のジェンダーアイデンティティを再確認することに焦点を当てた心身の医学モデル——というものに反対している。主に少女の間で最近急増しているという「性別違和」が、一般的に理解されているそれと同一であるのかどうかについても懐疑的だ。
だからこそ筆者は、本書の出版騒動がおさまった後、このテーマに関する「ほんとうの話」と書かれたものに強く惹かれたのだ。「傲慢で教条主義的な文化に抵抗する理性の代弁者」というシュライアー像は、筆者が氏の本を手に取った理由のひとつでもある。
この本が、批判者たちの言うようなものでないことを願っていた。ジャッジするのではなく、問題を分析し、それに立ち向かうものであることを期待したのだ。党派的な政治の打倒のみならず、このテーマを生身の人間のものとして深く理解することに、シスジェンダーとトランスジェンダーの両方の幸せがかかっているのだ。
筆者はただ知りたかった。なぜ今日、女子に生まれながら男子を自認する少女が増えているのか? 何が起きているというのだろう。未だかつて誰も説明できなかったその内容が、氏には語れるのだろうか?

しかし、シュライアーはその問に答える代わりに、物語を始めた。「ジュリー」についての物語である。
10代の社交的な少女で、才能あるバレエダンサーでもある彼女はスターだった。両親によれば、プロとして将来を嘱望され、激しい競争と高い技術を要求されるその世界で、成功者のレールに乗っていた。
両親のインタビューに、個人的なエピソードを巧みに織り交ぜたシュライアーは、プレッシャーの中で輝く少女の物語を描いている。ダンストゥループに入り、身も心も捧げられる情熱の行き場を見つけた。高校生活を見る限り、プレッシャーを成功と幸せな人生に変えていく未来は約束されたもののように見えた。

しかし、そこに綻びが生じた。シュライアーはこう語る。

ある時、クラスメイトの一人が、授業でジェンダーと性的アイデンティティについて発表した。ジェンダーアイデンティティ教育の古典的な道具である、ジンジャーブレッドクッキーのように人の輪郭を描いた「ジェンダーブレッドパーソン」を紹介したものだ。ジェンダーの「アイデンティティ」は脳、「指向」はハート、ジェンダーの「表現」は全身、そして生物学的な「性」は性器のある場所を、それぞれの矢印が指している。
ジュリーは魅了された¹。

Chapter 1 : The Girls

賽は投げられた。
その後に起きたことのいくつかは、おそらく10代の少女にはどうしようもないことだった。多忙な生活とストレスが、彼女の健康状態を悪化させた。自傷行為に悩んだジュリーはセラピーを受け始める。その際、セラピストが病気の原因として性別違和を挙げたことを、シュライアーは注意深く書き添えている。
氏はまた、ジュリーのネット上での活動が増えたこと(「トランスジェンダーの巣窟」として悪名高いアート共有サイトDeviantArtへの頻繁なアクセス²)や、ジェンダーの揺らぎのある友人との親交が深まるにつれ、「ジェンダーイデオロギー」に急速に急速に傾倒していったことにも言及している。
シュライアー曰く、この組み合わせは致命的である。闘病を続ける中で、ジュリーはトランスジェンダー男性として新しいアイデンティティを獲得し、両親と距離を置き始めた。高校卒業後には完全に絶縁し、身体を適合させるため胸オペを受けるところで物語は終わりを告げる。
心を痛める両親。絶望の淵に立たされるジュリー。シュライアーの筆致は、彼らの物語がもたらす人情味をこれでもかと強調している。

インタビューに応じたのは、ジュリーの両親だけではない。プライバシー保護のための仮名でラベル付けされたこれらの物語が、本書の主な内容である。彼女たちの物語は第一章(ふさわしく「少女たち」と銘打たれている)の大部分を占め、より大きな「ジェンダーイデオロギーの国の象徴的な物語」の随所に散りばめられている。
「サリー」「メレディス」「ジョアンナ」……並ぶ物語は、ジュリーとほとんど同じである。才能あふれる10代の少女が、それぞれに困難を抱え、思春期の重圧に耐えかねている。彼女たちは(情報提供者である)両親に助けを求める代わりに、インターネットカルチャーに足をとられ、悪化の一途を辿ってしまう。最初のうちは両親にも理解できる程度の性別の揺らぎであったのが、インフルエンサーや友人らの影響を受け、より過激になっていく。結果はおして知るべしである。

当たり前のことだが、インターネットのサブカルチャーをいくら漁ったところで、病んだ10代のメンタルはほぼ改善しない。友人は彼らの新しい性自認を奨励し、両親を仮想敵として、余計に話をこじれさせるだけだ。物語はたいてい、大学で終わりを迎える。移行を終えた若者はついに両親との関係を断ち切り、彼らにトランスフォビックのレッテルを貼って、社会的には孤立したままだ。
シュライアーが蛇蝎の如く嫌うおぞましき胸オペが、しばしば鎌首をもたげる。「萎縮」から「反体制」、「学校」へと章が移っていっても、こうした物語は断続的に顔を覗かせ——最後にはいつも、意気消沈した親たちによる家庭崩壊と移行についての語りへ必然的に回帰していく。

事実、シュライアーはこれら物語のピースを本当に足で稼いだのだ。
よく練られた文章で、テーマに人間的な重みを与えている。中傷表現が混ざることはあるものの、稀有なバランス感覚を保っており、他のパートのようなショック療法的な手口に陥ることを逃れている。もし、この書き口がもっと巧妙に使われていたら、あるいは冒頭の「少女たち」の章にのみ収められていたら、より広範で公正な議論を鋭く牽引していただろう。

しかし、そうはならなかった。本書は「議論」ではないからだ。
『不可逆的なダメージ』の重大な欠陥である。これは、本書とその根底にある感情を額面通りに受け止めることがわかりきった層をターゲットにした、シュライアーの演説なのである。
そして章が進むにつれ、ジェンダー・クエスチョニングにおけるさまざまな切り口(「ママとパパ」「パズル」など)を巡る旅は、われわれ読者の思考を停止させ、ただただ不愉快な気持ちにさせるべく、十分な尺が取られていることが次第に明らかになってくる。

第3章「インフルエンサーたち」では、トランスジェンダーのインフルエンサーと、ジェンダー・クエスチョニングにまつわるオンラインコミュニティの(奇妙で不可解な)世界に潜入してみせる。インフルエンサーたちの世界は、筆者にとってはとっくの昔に理解不能で荒唐無稽な存在である。そのためシュライアーにとって、これらトランスアイコンたちの声が、この分野では並ぶものない叡智ではない・・・・可能性を示唆することなど、造作もないことである。
おそらく氏はここで質問に答え、読者が彼らの理解に苦しみそうなコミュニティについて理解を深める機会を設けているのだろう。その一方で、シュライアーのレトリック過剰な文体は、せっかくの発見の機会を棒に振ってしまう。
氏は、なぜこの種のインフルエンサーたちが生きていくためにこんなこと——オンライン上の10代の若者たちに自分のジェンダーアイデンティティを問うよう強く促す——をしているのか、何が彼らを駆り立てるのかを探る代わりに、持ち前の芝居がかった皮肉を読者に浴びせかける。
たとえばこうだ。

DSM-5のことはさておき、あるいはその存在に気づいていないだけかもしれないが——トランスジェンダーのYouTuberジェイク・エドワーズは、「あなたが抱いているそれが伝統的な性別違和でなかったとしても、 “新しいタイプの性別違和”かもしれない」とアドバイスしている³。

インフルエンザにかかった? 交通事故に遭った? 最愛の人に振られた?心配しないで、(レイチェル・)マッキノンはいつも、あなたのそばに⁴。

大人なら誰でも(私がそうだったように)疑問に思うのではないだろうか。この魔術を——不確かでゴールポストが動き続けるホルモン投与のトライアンドエラーを——どんな医師がグリップできるというのだろう⁵?

Chapter 5 : The Influencers

オンラインのトランスジェンダーコミュニティは、当事者の強い意図により存在している“見せ物小屋”である。シュライアーのような人物にとって「普通」と感じられるような配信はしないだろう。実際、彼らは「普通」よりも良いものになりたいと思っているのだから。
彼らが 「普通より良い」と考えるものは、なぜ多くの精神衛生上の問題を伴うのだろうか。なぜジェイク・エドワーズは性同一性障害の「新しいタイプ」を考案したのか。一般的な性別違和と併存できると考えた理由は何なのか。これらの疑問が大事なのではないだろうか?
しかしシュライアーは、こうした疑問を避けて通るか、もしくは取り上げるべきだとも考えない。

その代わりに氏は、「彼らは変人で、あなたの娘たちを狙っている」という物語を取り出す。シュライアーの書く人々の語り、皮肉たっぷりの余談、統計やデータをわざわざ提示するときなど、すべてはその物語を支えるため配置されている。医療制度やジェンダー・アファーマティブ・ケアなど、他のトピックに焦点を当てた他の章でさえ、同様の構造になっているのだ。

いくらかの人間が、適合したと感じるために体の一部を切り落とさなければいられない理由に目をむけることはない。インターネットポルノのせいだと雑に決めつけて、簡単にそれを無視する。
本当に光を当てるべきなのは、たとえば陰茎形成手術がうまくいかなかったときに何が起こるかといった、生々しいディテールである。移行がセックスを台無しにする可能性について、われわれが論点にしたのは数えるほどではないか。胸オペが母乳育児の可能性を失わせることについては?

ぶっちゃけてしまえば、他人に怒りを押し付けようと躍起になりながら、おどろおどろしいトランスジェンダーのサンプルがならぶショーケースの前に座らされているのは、覗き魔にでなったかのようで、気持ちのいいものではない。
それでいて、本書が約束したこと——なぜ少女の移行が増えているのかを調べ上げ、理解させてくれるわけでもない。自分とは何もかも違う種類の人々が、若者のジェンダーアイデンティティに疑問を投げかけるべく、伝道師になることをなぜ選ぶのか教えてほしい。われわれ(筆者やシュライアーの読者たちのような)にとってまったく異質な何かについて、洞察を与え、問題を解決してほしかったのだ。

この2つの弱点——物語への依存と、シュライアーの感じる道徳的恐怖のしつこい強調——は、「ジェンダーイデオロギー」への抵抗と言われている。「ジェンダーイデオロギー」は、トランスジェンダー活動家、ジェンダー・アファーマティブな医療を提供する医師、ジェンダーアイデンティティの進歩的にな理解者など、広範で外郭の曖昧な連帯に言及する際、シュライアーが用いるフレーズである。
こうした呼称は、当面の課題をやっつけるためには便利なものだ。われわれには確かに、これらの人々を表すワードが必要だし、彼らがイデオロギーと呼ぶべき固定観念のパッケージを持っているのは事実だ。一定の人々は、「ジェンダーは社会に決定づけられる」という揺るぎない信念によって、さまざまな角度で結びついている。この党派的な熱狂は、しばしば人々を過激急進主義的・非合理的な存在に貶め、時には彼らの大義を棄損してしまう。

しかし、シュライアーはシュライアーで、なぜそんな道徳的恐怖を抱くようになったのだろうか。なぜ胸オペや「生理のある人」などという言葉にそこまで衝撃を受け、嫌悪感すら抱くのか。
端的に言えば、氏にもまた一定の固定観念があるからだ。シュライアーは、性別は第一次性徴によって決定されるものであり、「女性」というカテゴリーは「強さ」「論理的」「自律性」といったイメージをも包含できる懐の広いものだと考えている。——そう、シュライアーもジェンダーイデオロギーを持っている。正直なところ、その内容には筆者も同意できるところである。
しかし、シュライアーのジェンダーイデオロギーに同意しない読者の前では、すべての前提がもろくも崩れ去ってしまう。ページをめくった瞬間訪れるはずの恐怖に共感しない相手からすれば、それは論でも何でもないからである。アビゲイル・シュライアーが主張している——全世界がその口を塞ごうとしているはずの——偉大な真実とやらは、完全に主観的なものだ。
氏は、自分にとっての「真実」を語っているにすぎない。

そしてこれが、本書に最もフラストレーションを感じる点である。
ジェンダー・クエスチョニングな運動が、彼らの立場に異議を唱えられたときに見せるものと、まったく同じ妄想やヒステリーに陥っている。ヒステリックにはヒステリックで、ショック症状(「もしあなたが移行を阻害された子どもなら、自殺してるはず!」)にはショック症状で迎え討ち、短絡的で拙速な結論を好む。

おそらく思春期の少女にとって最大のリスクは、自分を救ってくれる浮き輪のように、突然このアイデンティティを掴んでしまうことであり、ある意味で最も壊滅的なものでもある。ある朝目が覚めて、乳房も子宮もなくなっている自分を見つめ「あの時私はまだ16歳だった」と突然正気に返る。子どもだ。なぜ誰も私を止めなかったの⁶?

Chapter 10 : The Regret

批判者たちと同様に、シュライアーも自分の中にあるジェンダー・バブルの外に出ることはできず、立場の違う人がなぜそう感じるのか理解できない。
このフラストレーションの一部は、筆者とシュライアーの立ち位置が同じであるという事実に基づいていることを認めよう。
われわれは同じなのである。筆者のトランスジェンダーの友人や、大学人の多くは、筆者と同じように、この異常にインターネット依存的な文化に困惑し、距離をとっている。立場の違う人々が、ジェンダー・アファーマティブな医療や性中立的な身分証明書の権利を主張するとき、その合理的な理由を理解することができない。

筆者もまた、ジェンダー・バブルに囚われている。ジェンダーはあまりにも個人的なものであるため、われわれは皆、個人個人の前提から逃れることも、自分の感情や経験の落とす影を見過ごすこともできないのだろう。
そうした幻想に切り込み、現実に何が起きているのかを突き止めようとする本こそを、われわれは必要としていた。トランス、デトランス、そして彼らを愛する人々の人生を客観的に調査する。どちらかの味方をするのではなく、事実を伝える本が必要だったのだ。

しかし、シュライアーにはその本を書くことができなかった。共感的な支持者の誘惑と、非常に個人的なテーマに対する氏の素朴な反応は、打ち勝つにはあまりに強大すぎたということだろう。だから氏の批判者たちは正しかった——と言葉にするのは悲しい。
本書は、シュライアーが不快と危険を感じる世界観に対する中傷をまとめ上げたものにすぎない。そして、このような問題は今後も続くだろう。社会的圧力と認知不協和の二重苦に苦しむ無数の少女たちが、逃避手段としてのトランスを求めるだろう。反発は、それがまだ起きていない場所のみで生じる——ウォール・ストリート・ジャーナルの社説。真っ赤な州のキャンパス。自分の子どもがいつ「彼ら」の毒牙にかかるのか、ひどく恐れている90年代以降の親のパラノイア。

そして、両者は決して交わることがない。異見者に伝えられる言葉を持つことも、自分たちの正しさと異見者の誤りを説明することもできない。彼らが持っているのは、「われわれは正しい」「われわれの心の奥底にある智慧はわれわれを高潔にも勇敢にもしてくれる」「『あいつら』は、われわれがあるべき姿で生きていくこと邪魔しようと躍起になっている」という、陶酔的で果てしない妄想だけだ。
彼らは彼らの真実を語り続け、われわれは自分たちの真実がなぜ語られないのか、理解に苦しむのだろう。


  1. pp. 9-10

  2. pp. 9

  3. pp. 45

  4. pp. 51

  5. pp. 54

  6. pp. 185


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