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わが心の近代建築Vol.26 旧渡辺甚吉邸/茨城県寺田

みなさん、こんにちわ。
今回は、2023年、茨城県取手市の前田建設敷地内に移築保存された旧渡辺甚吉邸ついて記載します。
旧渡辺甚吉邸は、1934年、東京都でも指折りの閑静な住宅街でもある白金台に建立。
施主は岐阜で銀行業を営む名家・渡辺家の14代目当主・甚吉氏で、新婚を機に建てたもので、ゆくゆくは二人の弟が上京した際に、同居することを見据えて建てられます。
なお、白金台は、東京の中でも指折りの閑静な住宅街で、近隣にはVol.23で紹介した東京都庭園美術館があり(下記リンク参照)、かつて目黒通りを走っていた都電からは、この邸宅を見ることができたそうです。
なお、旧渡辺甚吉邸は、施主の手を離れた後は、ラオス駐日大使館公邸→スリランカ駐日大使公邸→結婚式場に利用されたのち、2018年に解体され、前田建設の復元工事を受け、2023年に各種イベントで、一般公開されています。

次にこの邸宅を設計したのは、当時の日本で洋館の啓蒙活動と普及に努めた住宅専門会社「あめりか屋」の技師長・山本拙郎が。
実施設計は、のちに「エンド建築工務所」を立ち上げた遠藤健三…
中でも注目したいのが、細部装飾を行ったのが、考現学の始祖と言われた今和次郎氏…
この3氏が携わり、邸宅の基本構造は柱や梁などを露出させ、壁を白漆喰で塗るハーフ・ティンバー様式がもちいられ、内観は英国の山小屋風のチューダー様式を軸に、ロココ調であったり、和風であったり、様々に様式を巧みに用いています。

施主:渡辺甚吉(1906~1972)【写真はWikipediaを転載】
岐阜の名家・渡辺家の長男として、岐阜県松屋町生まれ。
暁星中学校卒業ののち、東京商科大学に進学。
卒業後は欧米各地を視察ののち父の家督を継ぎ14代目・渡辺甚吉を襲名。
帰国後は、様々な会社の経営に携わり、1937年には岐阜商工会議所の会頭に就任ののち、1939年から1947年まで貴族院議員として活躍在籍し、戦後は参議院を歴任。
また、岐阜県農業会長、東海ラジオ放送取締役、東海テレビ放送取締役副社長などを歴任。
愛車は中古の英国車のインヴィクタを購入し、運転手とともに玉川オートレースに参戦、初戦では本田宗一郎のカーチス号に勝利。
対戦で車は行方知れずとなったものの、ドイツで発見されて保存されています。

渡辺甚吉氏の愛車・インヴィクタ4-1/2リッター【WebCG記事「消えゆく多摩川スピードウェイ遺構に往時のチャンピオンマシン再び」より転載

基本設計:山本拙郎(1890~1944)【写真はWikipediaを参照】
香川県出身。
早稲田大学卒業後、橋口信介が創設した「あめりか屋」に就職。
5年後に技師長に就任。
施主の意向に合わせた住みやすい住居を良しとするコンセプトで、遠藤新の住宅時間を否定し、「拙新論争」を繰り広げることに。
1928年に橋口信介が亡くなると「あめりか屋」責任者に。
1932年に同潤会食卓に就任。
満州に赴き、満州電業の社宅を建設。
1944年に上海の地で亡くなります。
彼は生前、数多くの邸宅を手掛けるものの、資料がが少なく、明確に彼の作品と分かるものは非常に少なく、現存するのは「旧渡辺甚吉邸」のみとなります。

装飾担当 今和次郎(1888~1973)【写真はWikipediaから転載】
青森県弘前に生まれ、東奥義塾中学校外業ののち東京美術学校図按科でデッサンを学び、建築家の岡田信一郎からの薦めで早稲田大学建築課助手に採用され、建築家の佐藤功一に師事。
恩師の佐藤功一の薦めもあり、「白芋会」に参加し、柳田国男の調査に同行し、各地の民家を研究。
「考現学」を提唱し、建築学や住居生活、、意匠研究などでも活躍。
また、山本拙郎、遠藤健三の師にあたり、彼の装飾に関しても、現存する者は少なく、この旧渡辺甚吉邸は稀有な存在にあたります。

【建物メモ】
渡辺甚吉邸
竣工:1934年
設計者
 ・エンド建築工務所設計部(遠藤健三)
 ・全体設計:山本拙郎
 ・細部装飾:今和次郎
文化財指定:国指定登録有形文化財
交通アクセス:
 関東鉄道「寺田」駅徒歩1分
入館料:無料
留意点:不定期公開。前田建設で公開募集あり
参考文献:
旧渡辺甚吉邸サポーターズ著「奇跡の住宅」
旧渡辺甚吉邸のパネル各種
人物に関してはWikipediaを参照

玄関側を臨む:
目黒通り沿いの都電の駅の正面から、真正面に渡辺甚吉邸のチューダー様式風のガレージ部分(写真左側)を臨むことができ、威厳を放っていました。
また、ガレージには愛車のインヴィスタが収納されました。

正門部分:
手斧仕上げのハツリが施された木材や渦を巻いた掛け金など、チューダー様式の装飾がみられます。 

邸宅正面:
柱や梁などの木材部分を露出させたハーフティンバー様式がとられ、西欧の山小屋風の佇まいになっています。
なお、構造的にはダミーになっており、小屋組みも伝統的な和組になっています。
また、写真2階左側部分の筋交風の窓のデザインが独特で、壁面は移築時に竣工当時のクリーム色へ戻されました。

玄関ポーチ部分:
壁面にはタイル張りになっており、玄関部分の壁と床部分には小松石が使用されています。

平面図【平面図はスタッフの方の厚意で拝借】:
玄関部分を中心に、各部屋が配置され、各部屋は様々な意匠が取り込まれています。玄関を動線にした経緯としては、山本拙郎の建築思想から、お手伝いさんの手間を減らすため、とも考えられます。

玄関部分:
床は赤褐色の泰山タイルになっており、玄関扉は訪問者を外に押し出さないように内開きになっています。
また、こちらの照明デザインは、今和次郎のものになっています。

玄関ホール:
圧迫感を与えないために2階までの吹き抜けになっています。木々には、渡辺甚吉氏が持っていた山々からの良質な無垢材が利用され、その表面にはフルール。ド・リス(アイリスの花をかたどったもの)が彫られいるほか、手斧のハツリ仕上げがされているなど、非常に手が込んでいます。

玄関ホール 天井部分を臨む:
こちらの照明も今和次郎の作品になっています。
ホール部分が広く見えるのは、吹き抜け部分の貢献が大きく、大丸ヴィラから発想を得たとされています。

1階入込から玄関を臨む:
イングルヌック調になっており、ちょっとした会談なら、この部分で行えます。

1階応接室:天井、壁、扉や家具に至るまで、凝った飾りに囲まれた空間が広がっています。
また、特に目が行くのが右側の階段親柱で、オブジェとしても目立つものになっています。
また、写真左側の階段から2階寝室に上がることもでき、外に出ることもできますが。弟たちも気兼ねなく使用できるための配慮になっています。

1階応接室の暖炉と組絵タイル:
組絵タイルは美濃焼の可能性がある、とのこと。
タイル部分には甚吉氏の出生地である岐阜にちなみ、鵜(う)が絵描かれています。また、暖炉部分は赤いタイルが使用されており、廃棄施設が設けられていなかったことから電気機器を用いて室内を温めていたことが推測されます。

1階応接室 扉側を臨む:
入口扉上部には、4輪の花を思わせるデザインが描かれており、飾り棚部分には尖塔アーチが特徴な扉になっています。
これらは三越家具部の作品。
三越は自社工場を持ち、独自に職人やデザイナーを雇っていたため、他店と比べ格段のレベルの技術力・デザイン力を誇っていたものの、その後訪れる戦後統制による家具の単純化や代用品化で衰退…まさに三越家具部のスキルが完成された貴重なものになっています。また照明部分は今和次郎氏の作品で、窓枠はステンドグラスになっており、斜め格子になっています。

1階居間:
天井や壁は、応接間に比較すると、いたってシンプルに構成されています。が「住宅の暮らし方や趣味によって、使い方が変わってくる今のスタイルは厳格にまとめるべきではない」という山本拙郎氏の思想が大きく反映されています。

1階居間のイングルヌック:
渡辺甚吉邸では、居間と後述する主寝室にイングルヌックが置かれ、ここにソファを置き、家族気兼ねなく、暖炉周りに集まり、距離を縮めて様々な話がされました。

1階 居間部分の書斎:
書斎は、居間の端に設けられおり、どう間違えても、居間を抜けなければ入れない仕組みになっています。
1階で最もプライバシーが守られた部屋で、いわば甚吉氏の隠れ家的な室内になっています。

1階居間/サンルーム
床部分は床半磨きの鐵平石が使用され、庭に面したサンルームは山本拙郎氏のこだわり。
また、上の階のバルコニーからの漏水で、サンルームは木材の傷みが最も激しかったとされます。

1階食堂:
こちらの暖炉も、応接間と同じくガス管などはなく、実際に煮は電気機器を使用して暖められていたと推測されます。
一番目が行くのは天井部分の白漆喰で、立体的な装飾が施され、小さなバラに見えるレリーフを中心に、花びらのような4つの円が広がる模様は圧巻されます。
また、壁を覆う縦羽目板には、強度の強いヒノキ材が使用され、まだら模様のように見える壁の仕上げは、山小屋のような風情を表しています。
また、右側の壁の白い部分には食器箪笥があり、食器を展示していました。

1階食堂の漆喰天井:
明治期では、左官屋さんの手による鏝絵(こてえ)が一般的でしたが、時代が下がると石膏レリーフが多くなります。
この部屋の石膏部分は、石膏をペースト状にしたものをハケで塗り、繊維質の多い漆喰で5~10㎜程度で塗りこめ、脱型し得t白漆喰で仕上げたものを天井に釘留めと番線で固定し、中心の花飾りを最後に嵌めて隙間を埋めて完成させました。

1階 第1化粧室:
渡辺甚吉邸では、随所に泰山タイルを使用し、1階トイレ部分では、床から壁まで、1枚ずつ違った布を押し付けたような模様のタイルを使用しますが、これらは「布目タイル」と呼ばれました。
また、角部分など、通常のタイルでは収まりにくい場所をきれいに仕上げるため、特殊な形のタイルを使用し、これらは役物と言われます。

1階電話室:
階段下に設けられた電話室。
わが国で電話サービスが開始されたのが1869年のこと。
1933年に逓信省で日本国内で制式化されることとなります。

2階ホール:
2階部分は、3つの寝室や客間、夫人室、主寝室で構成されており、スキップフロアによる、階段的な構成になっています。
3つの寝室のいずれからも外に出られる構造になっています。
また、階段手摺のデザインは今和次郎のスケッチを参考されたと思われます。
会談にはチーク材、手すりは楢(ナラ)材が使用されました。

2階主寝室:
主寝室はロココ調調で構成されており、非常にロマンティックになっています。
この理由として、竣工当時、渡辺甚吉夫妻が新婚だったためとも言われています。
また、室内随所に曲線美のレリーフが施されており、壁に付けられた照明も、今和次郎氏のデザインによるものになっています。

2階主寝室/イングルヌック:
設計者の遠藤健三氏は、この部屋と1階居間を邸宅のなかで一番貴重な部屋と考えており、寝室にもイングルヌックが付けられています。床部分は泰山タイルが貼られ本格的な暖炉を設け、暖炉周りには大理石張りになっています。

2階主寝室バルコニー:
バルコニーは、渡辺甚吉邸で4つの寝室がある中、主寝室ん飲みに設けられています。山本拙郎氏は著書のなかで、「日本の洋館建築で2階に寝室がある場合にはぜひバルコニーが欲しい」と論じたように、渡辺甚吉邸で実践されます。
この真下がサンルームにあたり、バルコニーからの雨漏れでサンルームの木材のダメージが大きかったと言います。

2階夫人室:
主寝室と隣同士でつながっている部屋。
夫人本人の希望で、他の部屋に比べるとスッキリした近代的なデザインになっているものの、天井の折上げ天井が花型だったり、窓側が三角の木材が敷き詰めていたり、特徴ある部屋になっています。
また竣工時には、上リンクの東京都庭園美術館のように、壁紙にはTEKKOが使用されたりもしました。

2階夫人室 造り付けの洋服ダンス:
壁一面に付けられた箪笥は、ウォールナット製で、こちらも三越家具部の作品になり、夫人の要望で造りつけられたとも言われています。

2階夫人室に付随した化粧室:
夫人専用の浴室/便所などは舶来品を使用し。床・壁ともに大理石張りになっています。
竣工時は浴室/便器共に米国スタンダード解体時は浴槽のみ当時のもので他は後のものになります。

2階客間:
数寄屋風に設えてあり、床柱には竹が用いられ、面皮柱が使われたりしています。また、床框は黒漆塗り。窓下の小襖部分にいはラジエーターが埋め込まれるなど、伝統的な和室の中にも、近代的な設えがなされています。

2階(客間に付随した)化粧室:
3畳ほどの化粧室で、小さな茶室を思わせる部屋になっています。
床の間には各部に異なる木材が使用。
また、火灯窓風デザインになっている扉は、主寝室側から見るとロココ調に設えており、和と洋の調和がなされています。

2階 第1寝室:
こちらは家族/親戚のための居室で、それぞれの意匠が違った室内になっています。また、こちらの家具はチューダー調の造り付けのものになり、床部分には楢橡材を使用。壁と天井に関しては水性塗料が使われています。

2階 第2寝室:
渡辺甚吉邸、3つの寝室の中で唯一の和室で、解体時に壁は白く塗られていたものを、移築時に砂漆喰壁にし、腰壁をケヤキの生節硬羽目張りにしています。
建具は日本式で、左側に見える再度ポーチは渡辺家から贈呈されたものになります。

2階 第3寝室:
床材は、第1/第2と同じく楢橡材。壁はラフコートという、当時の海外で使われ始めたものを。
洋服ダンスと飾り棚は造り付けのものを使用しました。

2階第3化粧室:
天井以外、すべての個所で泰山タイルが使用され、茶色や青、緑…様々な色合いのものが使用。
また、1階部分と似ていますが、こちらには浴室が備え付けられています。

ガレージ:
ガレージには、施主の渡辺甚吉氏が愛用した英国車のインヴィスタがしまわれていました。
この部分はコンクリート製だったため移築こそできません弟子が、部材の一部を使用。
渡辺甚吉邸は道路の突き当りにあり、当時は知っていた都電からこの邸宅を見ることができ、地域のランドマーク的になっていました。

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