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わが心の近代建築Vol.35 旧本多忠次邸/東京都世田谷区野沢→愛知県岡崎市東岡崎

みなさん、こんにちわ‼
今まで、小笠原伯爵邸、旧土岐家住宅、坐漁荘(西園寺公望別邸)など、いくつかの華族邸宅を記載しましたが、今回は、東京都世田谷区から愛知県岡崎市に移築保存された、旧本多忠次邸について記載します。

まず、この邸宅は、施主の本多忠次が1930年に東急沿線沿いに約2000坪の土地を購入。邸宅は1932年に竣工。
忠次は、専門的な建築教育を受けていなかったものの、邸宅建設に関し、自らスケッチや図面を引くこともあり、また、各所の建築を訪問。
自身が気になった建築家や施工業者を調査検討。なお、設計以外にも施工も任せられる業者として、設計/施工には白鷗社建築工務所が担います。

邸宅に関しては1932年に竣工し、庭先のプールや庭園は翌1933年までかけます。しかし戦後の1945年7月から翌3月まで政府施設として使用されたのち、1946~52年までGHQに接収。マッカーサー元帥の顧問弁護士を務めたカーペンター夫妻が使用。
忠次は、邸宅に関し、「建物に手を加えることはできるだけ避けてほしい」旨を懇願、カーペンター夫妻も最大限の配慮を行います。
忠次は敷地の脇に小さな住まいを構え、接収後に再居住。
以降1964年の道路拡張工事で邸宅の一部が失われ、1975年頃に環7側の土地を手放します。
が…
忠次が亡くなるまで、住まいの様子は彼が亡くなる1999年まで、ほとんど変化がありませんでした。

施主の本多忠次(1896~1999)について記載すると…
徳川四天王のひとり、本多忠勝を始祖とする本多忠敬も次男として東京都本郷の旧岡崎藩邸に誕生。学習院を経て東京帝国大学文科大学哲学科を卒業した、新しい世代の人物でした。

本多忠次肖像(旧本多忠次邸施設概要より転載)

建物メモ
本多忠次邸
●竣工:1932年
●基本設計:本多忠次
●設計/施工:白鷗社建築工務所
●文化財指定:国指定登録有形文化財
●入館料:無料
●写真撮影:可
●休館日:
・月曜日(祝祭日時には翌日)
・年末年始
・企画展示開示の準備期間
●交通アクセス:
 名鉄「東岡崎」駅よりバスで「東公園」下車徒歩3分
●参考文献:
 ・岡崎市教育委員会 社会教育課「岡崎市旧本多忠次邸」
 ・丸ヨ建設工業株式会社HP 旧本多忠次邸復元工事
など

車寄せ:
車寄せは西側につけられ、ポインテッド・アーチと呼ばれる、先端の尖った開口部分の様式はチューダー建築の特徴になります。
また、外壁部分は色モルタル洗い出しで、車寄せ上部にバルコニーが付けられています。

南面を臨む:
まず。写真右側には、2階まで続くベイ・ウィンドウを備え、屋根瓦は赤色のスパニッシュ瓦。1階中央部分はスパニッシュ様式の特徴である3連アーチの開口部を持ち、上部は3続きの窓が付けられています。
そして、人造モルタル洗い出しの壁面にアクセントを付けるかのように、1923年に竣工した帝国ホテルライト館で注目されたスクラッチタイルがあしらわれています。

1階ベランダ:
ベランダ部分はスパニッシュ様式の特徴である連続アーチになっており、団欒室と夫人室サンルームを繋いでいます。
また、アーチ上部は、スクラッチタイルで彩られています。

2階ベランダ上部の窓:
この部分は、和室になっていますが、外観からは和室があることを想像させない造りになっています。 また、屋根部分は、先述のようにフランス瓦になっています。

2階東側妻飾りの壁面:
書斎上部の屋根の下には、陸の王である獅子が描かれ、ちょうど、庭園側のプールの壁泉である入鹿と向かい合う状態になっています。

東玄関:
右側の白い扉は浴室に繋がっており、忠次氏は農作業をしたあと、即座に浴室に入れるようになっています。また、真ん中部分は中廊下になっています。

旧本多忠次邸 壁泉:
左右にアーチ型のふくらみを持つ矩形のプールと水路を組み合わせた、T字型のデザインのプールになっています。
元々はプール…
というだけあり、25mありましたが移築時に短縮されました。

プール跡の壁泉:
壁泉部分は海の王・斜視がデザインされ、書斎上の陸の王・獅子と向かい合うような形に配置されています。
なお、吐水口はシャチの口部分。
こちらはオリジナル部分が移築されました。

プール跡のキューピット像:
こちらもオリジナルで、移築時にそのまま持ってきたもの。シャチの後ろ側にあり吐水口は手に持っている角笛部分になります。



平面図:
邸内平面図を見ると、当時から流行した中廊下式建築になっており、今までの華族の建築などでは和館と洋館を併設させることが多かったものの洋館の中に洋室と和室を備えた意匠になっています。また、中廊下を挟んで南側に、1階部分は団欒室や応接室、2階部分に家族スペース、北側部分に水回りなどのバックヤードが付属。また、日本家屋の続き間中心スタイルから、洋風の各部屋のプライベートに重きを置いています。

旧本多忠次邸平面図(本多忠次邸HPより転載)

西側玄関:
扉部分は鋳鉄製のアイアンワーク。
扉前の階段は花崗岩になり、車寄せ部分には造り付けのベンチが供えられています。右側部分には壁泉が描かれ、ライオンの吐水口は陶器製、手洗い所は人造研ぎ出し仕上げ、床部分や壁泉部分は陶器製タイルが貼られています。

1階 使者の間:
踏み込みはカエデの一枚板。
長押には本多家の家紋である立葵の釘隠しが付けられました。この部屋の家具は、玄関南側の応接室(現在は事務室)に置かれていたもの。

1階主階段:
玄関を越えてすぐに表れる部分で、開かれた階段になります。金属製の手摺子で支えられた手摺が目につくほか、白漆喰や照明など、非常に調和がとれています。

1階 トイレ跡:
トイレのあった場所。
移築時には新しい洋風トイレに交換されたものの、床材を剝がしたところ、濃緑と白色の市松模様に張られたモザイクタイルとラジエーターの配列、便器穴を埋めた跡などが残っていました。
復元にあたり、ラジエータと床タイルは非展示スペースにあった別の便器に遺されたものを転用。

1階 内玄関:
トイレ跡前にあり、家族が使用する玄関。
現在は本来外になる部分に来館者用トイレを設けたため、上部に瓦葺の小庇がついています。


1階 中廊下:
表玄関から、裏の東下巻まで抜けられるようになっており、真ん中に見える照明の下は扉になっており、家族のプライベートルームとパブリックルームを仕切ることができます。

1階 中廊下の防火栓:
この邸宅ができたのが1932年のこと…
関東大震災から、わずか9年で、関東大震災の悪夢が冷めやらぬ中、邸内には1階と2階に防火栓が付けられました。
また、地震/火災対策のため、2階寝室のバルコニー部分にも避難梯子が設けられました。
(ガラス張りは、展示用に設けられたもの)

1階 団欒室:
親しい友人や家族と過ごした部屋。食堂との境には、引き込み式の両開きの戸があり、奥側の食堂と一体で使用できっるようになっていました。台形に突出した5つの上げ下げ窓があり、食堂との境の右側には、ベランダに出られる扉を保持。壁面は漆喰仕上げ、天井部分には、高度な廻縁が回っています。室内の家具類は建設当時にオーダーメイドされたオリジナルで、細部にわたるまで職人の技が光ります。椅子やランプシェードは布の張替えがされています。

1階団欒室のステンドグラス:
ステンドグラスは蓮池に泳ぐ白鳥とオシドリが描かれています。

1階 食堂:
この部屋は古典的な様式でまとめられています。
天井部分の中心飾りはアーカンサス模様。
ベランダに面した窓上部にはステンドグラスを使用。
菱格子に唐草花、鳥の図案が描かれた左右対称になり、通常ステンドグラスは、教会等にみられるもので、一般家庭に用いられるのは、その邸宅のステータスシンボルにもなりました。

1階 配膳室:
廊下を挟んだ側に台所があり、移築工事の際、一番下に塗られていた色が当初のものと判明したので、再現。
また、右側に見える小さな開口部より、食器棚の開口部未連結し、食材を運ぶことができました。

1階 旧衣装室:
現在は、旧本多忠次邸の歴史などの展示室として利用。
左側奥に見える扉から、隣室にある夫人室を通らずとも、サンルームに行くことができました。
なお、扉前には金庫があり「所さんの学校では教えてくれないそこんトコロ」の金庫特集で出たものでしたが、調査の結果、中からは何もなかった、とのこと。

1階 夫人室:
別名「月の間」とも呼ばれ、家族でサンルームから夜は月の眺めを楽しんだことが伝えられています。
主に、夫人が稽古事や親しい友人との応接の場として用いた部屋。
磨き丸太を床柱とする8畳間の和室。
目隙張りの竿縁吹寄天井や面皮つきの柱などに女性らしさを感じさせます。
また、左側に見える障子は、表から見ると、スパニッシュ様式の格子で構成されています。

1階 日光室:
こちらの床部分のセメントタイルの不足分は、破片の断面の色から、復元されたものになります。また、照明は球場のガラスを、細身の半円形断面の桟で囲んだものになります。

1階 化粧室:
こちらは、更衣室や洗面所として使用。
また、右側はラジエーターになり、主だった部屋だけではなく、廊下や浴室、トイレ、女中室にも使用。
熱源は第二女中室(更衣室の反対側)から降りる半地下の「暖房・洗濯室」にあったボイラーで作られ、鋳製の配管を通じ、各所のラジエータに送られました。

1階 浴室:
床/浴槽/壁に至るまで鮮やかな色のタイルで構成され、3か所のステンドグラスで構成。
ステンドグラスは、熱海の根津氏別邸を暗唱して作られともいわれており、こちらには、写真には収まらなかったものの、浴室に直接入れる扉がありました。

1階湯殿の浴槽:
浴槽は3層から構成。
右側のヤギの吐水口から湯が出て、手前の低い層で湯を受け、真中の浴槽に溜まり、一番右側部分は「上がり湯」として使用。
なお、真中部分の浴槽が青いのは、忠次の「水色洗浄二見ユ」との思想から。

1階東側階段:
夫人室脇の中廊下にある階段。
主に使用人の方や家族らが使用。主階段との用途を分けることにより、来客時に、行動が制限されることを防ぎました。

2階寝室:
内階段を上がり、東側部分には心室があります。寝室は、化粧室/浴室/書斎とつながる部屋で、右側部分には階段部分を利用した収納スペースも保持。また、写真後側には、化粧室/浴室に繋がる扉も備えられています。白漆喰塗壁紙など、この部屋は銀色で統一されています。

2階寝室のベッド頭上部分:
頭上部分には本多家の家紋「石離れ立葵」を忠次自らアレンジしたものがデザインされています。子の家紋に関しては玄関前の花台にも描かれています。

2階化粧室:
2階部分は上げ下げ窓を使用。
上げ下げ窓は、建具と窓枠の両脇にあるオモリをロープで結び、オモリの重さと窓枠の重さを同じにして、どの位置でも建具が止まる仕組みになっています。
こちらも1階同様、洗面台とラジエーターを装備し、洗面台は東洋陶器(現在のTOTO)製になっています。

2階浴室:
この部分は忠次が身支度をするため部屋。
ステンドグラスには、数多くの魚が描かれ、イメージは龍宮城。
また、シャワーがつき浴槽は輸入品のもののホウロウ製、トイレなどは東洋陶器製(現在のTOTO)になり、トイレ部分には東洋陶器のマークが書かれています。
復元工事では、オリジナルのタイル上に付着したモルタルの除去や不足分の新規タイルの製造に、特殊な技術と試行錯誤が繰り返されました。

2階書斎:
施主の忠次が、1日の多くを過ごした場所で、忠次好みに設えています。書棚には建築書やインテリアに関する雑誌、趣味としていた植物に関する本が並べられました。
1階日光室から続くボウ・ウィンドウになり机やいす佐渡ボードに至るまでオーダーメイド品。
(現在は非公開ですが)寝室の階上に塔屋があり書斎上のベランダに出られるようになっています。
この部屋からは、竣工当時は世田谷の街を臨めましたが、現在は、岡崎の町を臨めます。

2階 お茶室:
この部屋はパリを起点として流行したアールデコを採用。
お茶室、と言いながら西洋風のティールームになっており、右側部分には、天井の段差を活かした円形の照明を採用。

2階 お茶室/ソファのデザイン:
黒漆塗りの木部と朱色のソファの伝統的な色遣いに、金色が加わり、モダンな家具になりました。

2階 「お茶室」水屋部分:
日本の伝統的な茶室と同じように、この部屋にも水屋を備えていました。また、この部分の照明も、モダンなデザインになっています。

2階 「控えの間」:
8畳の広さ。
床柱には孟宗竹、という数寄屋風。砂壁と竿縁天井が使用されています。この部屋は独立して使用することが加味されており、欄間の柄から「花の間」と呼ばれています。
右側部分の床の間に近い部分の中にはラジエーターが配され、夏の間は隠されていました。

2階 次の間:
この部屋から見える欄間部分は、雲鶴が描かれています。
また、この部屋の壁も砂壁で差縁天井。
照明部分は、1階夫人室と同じく金属と和紙でデザインされています。
また、奥側廊下には「地流し」を見る事ができます(後述)

2階 客間:
欄間の柄から、通称:鶴の間と呼ばれます。
この部屋は床柱のみではなく、床脇の違い棚板、ちいたつけ書院の天板にカエデが使用されており、忠次自らの足で見に行き、選んだもの。

2階客間の付書院:
付け書院の欄間は亀甲組子を採用。亀の甲羅は長寿吉兆の象徴ともされ、大変めでたいものになります。

2階入側:
和室3室に繋がる部分で、南側に面しています。
この入側があるため、邸宅外観を見た際、和室があると思わせない意匠になっています。
また、ガラス部分は、解体前に既に新しくされていた部分があったものの、ゆがみのある古いガラスも残っていました。
ゆがんだガラスを見えやすい箇所にし、内側から飛散防止フィルムを張っています。
模様のように見える箇所は、飛散防止フィルムの劣化によるものです。

2階 廊下「地流し」:
この部分は2階「次の間」部分から見えた「地流し」。
雑巾などを洗うためのもの。壁には給水栓と給油船が付けられていました。現在は、展示のため、扉をガラス張りにしています。

2階から主階段を臨む:
ステンドグラスから明るい光が差し込み、階段を明るくしています。
なお、左側の丸窓は、バルコニー側の納戸になっており、採光のために設えられました。

【編集後記】
はっきり言って、こんな建築が、かつて世田谷区に遺されていたことについて全く知らず、この建物が、本多家にゆかり深い岡崎に移築されたことの大きな感動を覚えました。
この建物に関しては、かつて3度訪問しましたが、またぜひとも訪問したい近代建築の1つです。

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