安心して憎めばいい

日曜日 祈り難きを祈る会に参加
させて頂いた。

母の自死経験など
様々な過酷な経験を伺った。
誰も憎しみに縛られたり
不幸を背負っただけのまま
生きていないこと
寧ろ、自分を許したいという尊さに
心を打たれた。

みんなでサイレントタイムをとった。
私も含め、今どうしても許せないことはなく
本当は全て許しているという気づきが
共通していた。

圭吾さんがいう
命は生きたがってるという言葉を
何度も思い出した。

人はきっと絶望しても、
希望なんてひとつも見えなくなっても
自分の気づかないところで
ちゃんと
許したいし、幸せになりたいし 信じたいし
愛したいんだと思った。

その本能みたいなものに安心して
思い切り憎んで、思い切り許せないと
泣いてみたらいいんだと思った。
思い切り自分を嫌いにもなればいい。

絶望したとき
中途半端に許さなきゃとか
優しくしなきゃなんていらない。
中途半端なこうすべきなんて役に立たない


それより、もっと安心して怒り絶望し
一生許さないと決めてみてもいいと思う

そう決めたはずなのに、
絶望のまま生きることも
出来ないと知ったとき
自分の生きたがってる命を感じる。
それは、
自分の意思とは関係ないところからくるのか
それとも自分が生きたがってることを
忘れていて、思い出すのかは、
まだわからない。


ただ恨みだけを抱えたまま、
許せない感情だけのまま
生き続けることも出来ないと知ったとき
自分が少し愛しくなる。
命ある限り、諦めきることが出来ない人の
生命力を尊いと感じる。

圭吾さんが
今、大きな悲しみの中にいるけど生きてる人
の話を聞かせてくれて、
ガンジーのような偉人とされる人と優劣なく
変わらず尊い人生なんではないかと話した。

本当にそうだと思う。

私は真っ白の清廉潔白になんてなれないけど
真っ黒の悪の塊にもなれない。

自分に自信はない。
胸をはれることなんてない。

でも自分の生きたがってる命があることを
信じることならできるかもしれない。
自分が強い人とか弱い人とか関係ない。
ただ確実に今存在する自分の生命を
信じることならできるかもしれない。

今は信じなくても大丈夫だと思う。
信じれなくても、きっと今この瞬間も
生きたがってる。
信じられないのは、それが見えなくなるほど
今は苦しいだけなんだと思う。

やがて生きたがってる
命に気づく日がきて、
それに触れたら命の冒涜の本当の
意味がわかる気がする。

私は、絶望しても、許さないと決めても
いつか幸せに向かい歩き出してしまう
自分を知ったとき、
今までより自由になれる気がした。

また立ち上がる自分を知ったことで
どこで安心して絶望するんだと思う。
傷つくのが怖いから出来ないとか
中途半端な正義感とかいらない
鎧をどんどん脱いで
どんどん自由になっていく。

この自由の先にはなにがあるのだろう。

生きてると
ショックな出来事には気づきやすいけど
許すとか立ち直るとかはとても緩やかに起こる。
機械のように今日許しましたというわけでもなくもう100大丈夫です!でもない。
だから許していたことに
気づかないものかもしれない。

でも既にゆるしていて
私たちは
生きたがっているし
愛したがってる。祈り難きを祈る会は
そこに
気づく素敵な時間でした。

とりとめがなく書いてしまったが
まだまだ感じたことがあるから
また書きます⭐️




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