けものフレンズ2の2話感想

・2話「ぱんだとぱんだ」感想


 前回のあらすじについては省略。
 絵について解説するキュルル。不自然ではあるが、後のセルリアンとの合成素材の件と合わせて考えると今のジャパリパークにはイラストが現存しないのか?
 カラカルから「ヒトなんじゃない?」と再度言われる。大半の視聴者に想像がついている可能性で長くもたつくのは、展開が遅いと感じられる。(※のちのリアルイベントで没案や裏設定などの中に、キュルルの正体がセルリアンであるパターンも記述されていたが、本編からの考察ではまったく辿り着けない妄想レベルの設定のため無視する。その設定のブレがヒトと確定させられずにストーリーがぐだついた可能性はあるが、矛盾したそれらの設定を適用して本編を解釈しようとしても更に破綻するだけであるため、ここでは単純に即座にヒトと決めつけない慎重な態度としてのみ扱う)
 主人公がヒトと推測されたなら、サーバルがどんな「ヒト」と旅をしていたか、よく思い出せないと言っていたがもう一度可能な限りの情報を語って欲しいものです。サーバルの記憶問題があまりにも放置されすぎていて、一瞬だけカバンを見たことがある別個体ですといったミスリードなのかと疑ってしまう。アプリ版と声優が違う場合は別個体であったけれど、けものフレンズ3では声優が同じまま別個体のものが出てきていることだし……。
 キュルルが記憶を取り戻せるかだけではなく、それと並行してサーバルの記憶を戻すことにも尽力したほうがヒトの手掛かりを思い出せそうだと考えないのでしょうか。そちらを「思い出せないから仕方ない」とあきらめる明確な理由も努力も見えないため、前回の1話のあれだけで片づいたことにされるのは記憶問題があるたびに多大な不満を発生させます。

 スケッチブック第三の絵(一話で二枚使ったため、話数とは若干ズレてますね)と似た場所を見つけて降車。モノレールを停車して欲しいと思った時でも、ラッキーさんと交流しない……ただの装置扱いのようで悲しい。それにせっかくのラッキービースト亜種なのにほとんど絡まないのは純粋にもったいないです。何のために亜種を設定したのか。
 竹林に到着しての第一声で「つるつるした木」とサーバルが表現するけど、竹を樹木だと即座に判断することに違和感。植物ではあるけれど、見たことがないのであれば木か草で迷わないのでしょうか。語彙力や表現の仕方はよいのですが、そこがかなり気になる。もしも旅をした記憶があるのなら竹を木と見なしても不思議ではないけれど、サーバルが記憶喪失ならそこは初見らしさを保って「つるつるした……木かな? 草かな?」と迷って欲しかった。
 さて、スケブ絵との比較で目的地探し。なんですが、今のところ絵に描かれている土地を巡っても「記憶にない」ばかりで成果がないんですよね。サーバルの記憶もそうですが、とにかく思い出せない。今回の結末も「思い出せた気がする」がキュルルひとりで遊んでいるイメージ映像(主観視点で思い出していないですねコレ? 誰視点?)だけで、誰かと一緒にいたのかさえ不明で何の手掛かりにもならないものだけ。まるで無限に引き延ばせるように、考察可能な素材を一切与えないように徹底されているかのようです。第一話で「その家と一致する建物を探せる、役立つ」脳内のイメージ映像を出したのがイレギュラーだっただけで、ふわっとした「気がする~」「なんとなく~」ばかりなんですよね。だから話が進んでいる気がしない。メタ視点ではパークを徘徊する理由にはなっていると理解できても、絵と似た場所探しが「おうち」探しに貢献しているようには見えないし、本人たちも成功体験がないのに、まだ2話の時点でスケブ頼みの旅を(藁にも縋る気持ちとしてではなく)当然の行動としているのが操り人形のようで少し不気味です。

 妙な音で周囲を警戒して、ジャイアントパンダと遭遇。竹にパンダ……チベットちほーですかね。パンダの尻尾って黒でしたっけ? 白だった気がしますが。
 彼女は絵の場所を知っていると言うが説明の途中で寝てしまう。この時のカラカルの態度がよろしくない。警戒心の強さと、相手を疑うのはちょっと違うと思います。レッサーパンダのフォローのためとはいえ、パンダの「どこでも眠れる」を珍しい特技だと言ったばかりなのに本人不在なら「そんなこと、できなくていい」とくだらない特技であるかのようなニュアンスで言う。この場面に限らず、カラカルはトゲトゲした口調や嫌味、悪口が多く、その点もあまり子どもに見せたくないアニメといった感じがします。
 レッサーの言葉の意味は「~より小さい」などですが彼女は「劣った」の意味でキャラ付けが行われていますね。このレッサーパンダはとにかく卑屈さや劣等感を表にしてくる。
 ジャイアントパンダちゃんは知っていたよと言った場面で、カラカルは先ほどパンダを疑っていたのに「起こして訊いた方が」と意見を変えるのは性格を捻じ曲げてでも脚本通りに進行させようとする感じで不快です。弱者の追い込み方と自滅のパターンとしては王道展開でも、接続が狂っているために(負の方向性の)ご都合主義だと感じる。あるいはカラカルが単純に悪口大好きで、誰かを貶せるときには一貫性を失ってでも貶したい性格なら何の矛盾もありませんが、どちらにせよカラカルは嫌いです。
 起こそうという意見が出たことでレッサーパンダの暴走が始まりますが、話としても絵的にも面白くないので見ていて苦痛です。放置されたジャイアントパンダは目を覚まし、頼まれた案内を続けようとする。こちらは体質に問題があっても善良な印象。ナルコレプシーなどの病気ではなく、あくまでもパンダの習性として頻繁に眠るだけでしょうね。

 高所に登ってしまうが全然違うと言われてやりなおし、今度こそと言うもスタート地点に帰ってきていると指摘される。無駄足だったことをカラカルは怒る(ここは理不尽ではない怒り)し、レッサーパンダは自業自得であるものの泣き出してしまう。この展開も個人的には辛いのですが、その後の台詞はキュルルの性格の悪さを語るうえで外せないものです。
>ありがとう。
>だって助けようとしてくれたんでしょう? そう思ってくれただけで、僕は嬉しい
 キュルルはこの言葉に仲間の賛同を求めませんでした。相手を許す行為をしながら、迷惑をかけられたと一番怒っているカラカルに声をかけない。許す側、施しを与える側は楽なんです。嘘をついた子どもを諭して成長を促す義務はなく、論理的に批判してもいいし、悪態をついてもいいし、そしてもちろん許してもいい。この時に最も相手から喜ばれる行為(※相手のためになる行為とイコールではありません)は、自分の仲間が貶しているのを無視して相手の側につくことです。

 相手を許すのは善性や善良を意味するのか? 必ずしもそうだとは思いません。これとは全く別の状況、一対一の関係なら、寛大な心と評価しても構わない。しかしこれは四人の物語です。全員で許そうとするために手を尽くすなら聖人君子でも、キュルルは独善的で、カラカル達の心変わりを促さなかった。説得しなかった。サーバルは……無反応なので何を考えているのはいくら想像しても不明ですね。
 相手の気持ちが嬉しいと「主観的な感想を言っただけ」と擁護する意見もあるかもしれません。しかし、相手が自分の感謝の言葉にどう反応するかわからなかったら異常だし、わかって言っているのならカラカルを無視しているのが異常です。そもそも彼の言う「嬉しい」とは何がうれしいのか?
 役に立ちたいというのは言葉としてはきれいな響きです。でも「あなたの役に立ちたくてあなたを嘘の道を教えました」と言ったら、誰もがその矛盾に気が付くでしょう。実質的にはレッサーパンダの発言はそれと同じです。道案内ができるか否かとは、何かを修理したり調理するのを実際に試してみて、それが想像より上手くいかない結果になるのとはまったく違う。後者は努力や機転で補える可能性があるものの、前者(今回)は純粋に知識の有無だけであって努力が反映される余地がない(記憶が曖昧だが、歩いていたら思い出すかも~ですらなかった)。目的地もルートも何も知らない状態で、彼女は偶然にたどり着いたときに手柄をかすめ取ることだけを考えていた。この時のレッサーにあるのは自己顕示欲や承認欲求のみで、役に立つためどころかパンダを起こす選択の妨害さえしている。そんな振る舞いに「役に立とうとした」なんて立派な理由を認めるわけにはいきません。もちろん、そんなレッサーに感謝した言葉が本心からのものなら、キュルルという人物の精神は破綻していると言うよりない。

 前述したもう一つの可能性、キュルルが弱者にはついつい甘くしてしまう性格で、出まかせの理屈でレッサーを褒めた結果としてカラカルが一人だけ悪者になったと解釈するのはどうでしょうか? もっとも、これはこれで第三者の好意を得るために仲間内に不和を生んでいること、レッサーはカラカルには許してもらっていないことなどの問題点があります。自分の非を理解しているのに理解不能な理由で褒められてもレッサーは不満足だったでしょうし、キュルルはひとりで気持ちよくなっただけ。キュルルは独善的で、その言動を見ていて気分が悪くなる。彼が見せたのは優しさなんかじゃない、彼の行動の意味は刹那的快楽を得るためだけのものです。それに対してレッサーが嬉しいと涙を流しつつ答えていますが、責められずに済んで安堵できるとしても、見当違いの褒め方をされても嬉し泣きできるものではないでしょう。脚本が狂っている。

 おそらく一番ましな解釈は、相手が欲しかったであろう感謝の言葉を述べるのが一番相手を傷つけるだろうと「邪魔をしておいて、お礼を言われるわけがないのは理解しているよね?」と相手の心理を読み、狙ってキュルルが感謝の言葉を使ったパターンでしょう。こちらは主人公側の態度に破綻がなく、彼の性格が悪いだけで済みます。代償としてレッサーが涙を流すほど深く傷つき、だれ一人として彼女を許していないという問題は残りますが、そんな悪意はけもフレ2では"ままある"ことですし単なる駄作になるだけで済む。

 いずれの解釈を採用すべきかは各自の判断に任せるとして、改善案は簡単に思いつきます。
 高所に向かったシーンでは山を背景にして彼らの正面からの姿を映しており「違うなあ」とぼやく景色そのものは視聴者に見せませんでした。この作画カロリーの節約こそが問題だった。前作でトキに抱えられながらカバンちゃんの見た、ダイナミックな景色には及ばずとも、定点からだろうと素晴らしい眺めの世界を描くことはできたはずです。(余談になりますが、別のアニメを作品名を出さずに例に使って説明します。その作品では非常に美しい景色を描いて視聴者と主人公に見せつけ、その色をまた見たいと願う少女の気持ちに無限の説得力を与えていました。キャラクターだけが見るのでは足りない。視聴者にも見せることは共感を呼ぶための重要なファクターなんです)そういうシーンをいれていたら、どんな脚本家や監督でも「さっき美しい景色見せてもらえたし、感動でみんな許しちゃうよね」等のもっとましなフォローがアドリブで出てきたはずです。キュルルの主観だけが許すのではなく、皆で景色を共有したならその理由に皆で賛同して一緒に許しやすくなる。カラカルにも許される。レッサーだってキュルルの独自解釈を理解できないまま乗っかるのではなく、同じ景色を見て感動しているため本心から許されたと思えたでしょう。もっとも、レッサーが名誉を欲しさに行動していた部分にも手を加えて「本当に見たことがあるけれど、今は荒れていてわからなかっただけ」などの改変も必要でしょうが、そんな台詞の改変は静止画に数秒の声だけで付け足せられますよね。

 景色を描いて見せるこの案にはもう一つのメリットがあります。それは前回の感想にも書いた順路のショートカットという発想です。先ほどは、高所からの眺めが前作で空から見た景色に及ばないと書きましたが、それは正確ではない。新主人公たちにはスケッチブックの予言という「第三の目」があるのです。今の目的地は見つけられずとも、次の目標を先に見つけてしまってもいい。2話の終盤では「何故か次の目的地を決めた後で、似た景色が近づいてくる」のですが、その順番を単純に入れ替える修正のみで終わらせるよりも、こういう時にこそスケブをパラパラめくって「次はどこへ行こうか」を有効活用するべきでしょう。第三チェックポイントが見つからなくても第四ポイントが見つかっていたら、そちらを理由にレッサーパンダの記憶違いを許す展開に持っていきやすいですしね。

 前半パートの終わりごろ、重要な会話にはちっとも参加していなかったサーバルが何かを見つける。喧嘩があったときに和解させようとしないで他に興味が向かっているのは、全然サーバルらしくないと感じますね。サーバルらしさと言うと「それはあなたの主観かと思うので。僕はそう思っていない」などと言われて否定されそうですが、それならば単に異常な精神と言っても構いません。今回のサーバルは相槌やすっごーいなどの大衆的な感想、補助的な言葉ばかりで意味のある台詞をまったく喋らないように無害化、無力化されているんです。実際に2話で彼女がした発言をすべてカットしても今回の三十分のストーリーは何の問題もなく成立します。奇妙なパーツを見つけたのを好奇心旺盛(彼女らしさ)を持つサーバルの貢献だと庇う方もいるかもしれませんが、それはあまりにもキュルルを馬鹿にしすぎた見方でしょう。風化した景色を前話で見ているのだから、自然物ではありえない奇妙なパーツが竹林に落ちていたら、手掛かりの足りない彼らはそれに興味を持つのが必然です。これ以降の回でサーバルがまともな発言をしない、ただの会話Botだと揶揄されることがありますが、今回は特にひどかった。落ちている物には興味を示すのに、フレンズのギスギスした喧嘩は自分も当事者であろうが無関心なんてありえない態度です。
 レッサーを追い込む圧力として人数が多いことに脚本上の意味はありますが、それは前作からの重要キャラであるサーバルを使う意味がない。途中退場して誰かに引き継いだって構わないんです。彼女がキュルルの旅に同行した事実だけを重ねても、これでは友情や信頼を築いたという説得力を生み出すことはありません。このサーバルは他人の心に無関心で、ただ脚本に要求されたタスクを時間内に終わらせるための道具としての扱いを受けている。

 新しくなった動物解説を挟み本編再開。初見の時には「なにか」が修理されていて戸惑いました。見直している今回ですらも少し困惑しています。
 説明しますと、バラバラになっていた滑り台のパーツを既に組み合わせて修理に成功(なんの道具もないのに何故か結合できる)した状態で再開しているんです。風化した人工物を描いていた第1話と噛み合っていない感じがします。何より、これではまるで人為的に分解したきれいなパーツが置いておき「それを再構築できるヒトを探す」ためのチェックテストとして用意されていたかのような展開です。まるで前作で賢い鳥たちが利用していたクイズのようだ。都合がよすぎてそんな深読みをしてしまうのですが、残念ながらこれはけもフレ2。そんな理由が設定してあるはずもなく、直せるものは何故か直せるだけでした。全然すごくない……。
 無関係の滑車からもしかしてとひらめいた理由も、直すまでの過程さえも省略するのはただただ困惑します。主人公の活躍を描く気がないのでしょうか。
 直した遊具でフレンズが遊ぶ際にキュルルは「見ているだけ」なのも気になります。今回、彼が何かを思い出せたと主張するときの脳内イメージは孤独に遊んでいる映像でしかなく、誰かに遊んでいるのを「見られる」シーンがまったくないんです。(作画や尺の都合と擁護する人もいるかもしれませんが、遊具に触れながらどこかへ手を振る差分やあきらかに注意が他人に向かっていると感じさせる視線に変更するだけで、同じ時間で同じく無音のままでも誰かと一緒にいる感じは演出できたでしょう。本編のこのイメージ映像では彼が何かを思い出したのではなく、その場で偽物の記憶を捏造しただけとも受け取れる)
 3話4話5話7話でも彼は「遊ばせる側」であって、最初に手本は見せてもフレンズと一緒に遊ばない。いつもの「お絵描き遊び」も魔法のようにいつの間にか完成しているため、彼が楽しそうにお絵かきする姿を見た者はひとりもいないのです。子どもが遊ぶのは恥ずかしいことではありません。はしゃぐ姿を見られるとは、けっして他人に弱みを見せることではない。キュルルはフレンズの管理者や保護者ではないんですよ。カラカルが「あんただけ遊ばないなんて」とレッサーパンダに声をかけているため、映像化していないだけで設定上は遊んだ可能性はあるのでしょうか? しかし、キュルルが3,4,5,7話で遊ばないことを鑑みると、最初からヒトはフレンズに混ざって遊ぶものではないというのが彼らの常識である可能性も高い。もしそんなつもりはなかったと監督が弁明するとしても、彼が遊んでいる姿を視聴者には見せないことが意味する映像的な効果、与える印象にプロのスタッフが無頓着でいいはずがありません。2話で遊んでいたと裏設定を主張する場合、残りの話数についても同様に裏設定という名の妄想で補強しなければいけなくなります。

 あるいは別の可能性。大人ぶって「遊べない」キャラは他の普通のアニメでならたびたび登場しますが、あなたはこの作品でも同様に見えますか? 私には、キュルルが大人扱いされたいとムキになる子どもらしい人間味があるとは感じられませんでした。そもそも彼は記憶喪失。まだサーバル、カラカル、ロバ、カルガモくらいしか知人のいない状態では、規範とする大人がいないのではないでしょうか。もしも大人に該当する存在かそれへのイメージがあるのなら、一から十まで子どもっぽいフレンズ頼みにするよりも「大人のところへ連れて行って」となるでしょう。その点からもキュルルの中に、彼の憧れる大人のイメージ像があるとは思えないのですよね。探している場所まで連れて行ってあげると言われた口約束に対してキュルルは完全に相手に甘えています。そちらについては大人なんだから平気と言わないし相手を一人前扱いして頼る、周囲が全部自分の都合に合わせてくれると依存しきっているが態度の大きい子どもは現実にも普通にいるものですが、作品の主人公としてそういうキャラクターがいたときに魅力を感じるかと言えばノーですね。
 先程のレッサーを謎の理屈で許すシーンについて解釈するとき、あれを子どもが「寛大な大人ごっこ」をやっていると思えば部分的には(というか、けもフレ2全体を無視して2話単体で見た場合の感想で終わらせるのであれば)まだ意味が通ります。独善的で、自分だけが勝手に許してほかの二人には賛同を求めもせず、意見の違いをフォローしない点は一緒であるため、その精神は幼稚なだけで正常だとして矛盾を排除できても、彼の性格が悪いのは変わりませんが。
 (彼が遊ばないという観点からの解釈については9話でまた詳しく触れると思います。9話視聴済みの方は、キュルルがフレンズと普通に遊んでいるようだとアルマジロから評価されたことについて、今回の感想と矛盾する部分があると感じられるかもしれませんが、今は「保護者や知人に遊ぶ姿を見られること」と「まったく知らない相手と遊ぶ」ことには違いがあるとだけ書いておきます)

 今回だけでは語り切れないためキュルルの考察はひとまず置いておき、本編の話に戻ります。
 すべての修理が終わったわけではなく、レッサーパンダにもひとつ手伝いを依頼します。なんだちゃんと得意な分野に役割を割り振っているじゃないかと思われるかもしれませんが、これは脚本の用意した罠でしかなかった。彼女は今度こそ本当に得意なこと(特技)を活用してブランコの修理をしますが、よりによってジャイアントパンダが遊ぶ番になって不具合が出てパンダは落下する。どうしてこんな展開にしてしまうのか!?
 これをレッサーが他人を騙した報いと解釈するのはストーリーのみに依拠した見方と言わざるをえない。レッサーパンダは比較的手を使える動物です。立ち上がることで有名になった動物園の人気者もいますが、立ち上がる事にはエサの笹へと手を伸ばしてつかみ、器用に引き寄せるためという理由があった。手足の特性はセットで発達している。勧善懲悪や倫理を考える以前に動物アニメとして、手を使えるフレンズが手先が不器用で失敗するということは間違った偏見を身につけさせてしまい好ましくないのです。また、ストーリーのためにレッサーに罰が当たったなら~とこの脚本を無理やり擁護する解釈の例を挙げましたが、実際はそちらの意味でもこの話はおかしい。主人公側の説教との関連で考えた場合、ストーリー上の役割として異常な失敗エピソードになっている。
 レッサーの最初の行動を再確認します。嘘をついて案内役の地位を簒奪し、善意があると口先で言えば本質は問われずにありがとうと感謝をされた。第二の行動では適材適所の仕事を割り振ったキュルルと、その依頼をこなしたレッサー。こちらは作業ミスが発生して遊具は壊れる。道徳的な「おはなし」として見たとき、この対比はあきらかに異常です。正しさがまったくない行為には感謝があり(お礼は「邪魔してくれてありがとう」的な嫌味で言っていないものと解釈するとして)、他人のために努力した行為は力不足からの失態で、ぬか喜びさせられるなんて。
 一度でも嘘をついてしまったレッサーパンダは永久に成功を掴めないように呪われているのでしょうか。
 罪と罰の対応関係がズレていると、視聴者は二つを因果でつなげることができずに混乱します。断絶を無根拠の妄想で補うしかないため、他人との感想でも大きく食い違う。レッサーは「キュルルに叱られる」代わりに「作業ミス」をあてがわれていますが、これはキュルルを聖人君子に見せかけるための欺瞞でしかなく、しかもそれは前述したとおりに正しい行いではない。彼の施しはあきらかに異常であったためレッサーの心を犠牲にしても評価を上昇させることはできませんでしたし、レッサーパンダも意味不明の解釈で褒められた直後に動物要素に反した描写で「特技」を失敗をさせられて散々です。
 せめてレッサーの作業箇所が壊れる事件さえなければ、この作品は倫理観や因果応報よりも動物要素だけを気にしていると言ってもらえたのかもしれませんが……有名なパンダの尻尾さえ間違った思い込みで描かれ、そのの絵がチェックを通過する現場では期待するだけ無駄でしょうか。

 また、先程は強引な解釈でレッサーに感謝の言葉を施したキュルルは再び別の理由でレッサーに感謝しますが、その言葉も色々とおかしい。
>この絵の場所は、ここだったんだ
>君が修理を手伝ってくれたおかげで、それに気付けた
 いや、あの、滑り台を直した時点で絵の風景と一緒だとわかりますよね。色々探し回って類似を見つけられなかったわけですし、一致率100%ではなくとも最後の一つを直す前に確信を持てるでしょう。また、滑り台の修理は手伝ってくれたのかなどの描写を全部カットしてしまったせいで、レッサーの活躍施工不良のあったブランコ部分しか見せてもらえないのも辛い。ここでも作画の手抜きが悪影響を及ぼしていますね。「きみのおかげでブランコで遊べるようになったよ」とでも言っておけば誰もが認める事実なのに、どうしてわざわざ大げさに最大の貢献者であるかのように言わなければいけないのか。そんなことをされてもカラカル達の貢献したことへの評価を奪っているようで委縮するし、またもや見当違いの褒められ方ではレッサーが可哀そうなだけではなく、キュルルという人物の思考が狂っているのを際立たせるだけです。論理的な思考が行われていない。彼がなにを正と評価して、なにが悪と評価するのか、見当がつかなくて恐ろしい。

 もし、ブランコは「後で壊れる予定だったから、褒めさせなかった」のなら完全に制作側の自業自得で操り人形すべてが狂ったことになります。セルリアンの登場前に仲間の過失で壊れる必要なんて最初からなかったのに、脚本を狂わせてまでブランコを破壊した皺寄せのためにレッサーを正当に評価する機会を逸しているなんて。ブランコの修復失敗に嘘つきの報いといった意図があるのか、そんな深い意味はなく単にキュルルひとりがおかしいのか、それとも作品すべてがおかしいのか、どれを選んでも後味が悪いです。

>ってことは。わたし、役に立ったんですね
 二度目の感謝を受けてもレッサーパンダの心理はよくわからないままです。ブランコの修理部分だけではたいして代り映えしないことは承知の上だと思うので、喜んでいる姿を見ても共感しにくいです。せめて滑り台の修理に関わって欲しかった。
 レッサーの修理した遊具が壊れると先に書きましたが、今回の話ではとにかくレッサーからは活躍の機会が奪われています。直し始めたきっかけは謎パーツを拾ったサーバル、滑り台修理はキュルルとカラカル、後のシーンで「ヒトを探しているフレンズがいる」と教えてくれるのはジャイアントパンダ。レッサーに分配されたのは「遊んでいる最中に壊れてしまう遊具の修理をメインで担当」の役です。パンダのそれを除けば一つ一つは重要な役割ではありませんが、主役たちだけで片づけてしまうのはゲストの扱いを間違えていると感じます。地味な貢献シーンの積み重ねこそがぽっと出のレッサーに必要だった「他人のために頑張る」描写であり、その基礎がないためにキュルルの感謝の言葉も空疎に響くのです。

 キュルルはブランコの修理をしたのを褒めただけ? そうですね、初見の人は「レッサーちゃんはブランコを直したんだ。えらいぞ」と言うでしょう。そしてそれが壊れるのを見たとき、言葉を失う。私のように二度目を見る際はこの結末を知っているため、何か他に褒める箇所はなかったのか探そうとして、AパートBパートの切り替わり部分で修理シーンがカットされていることに絶望します。レッサーパンダを嫌いなスタッフが制作しているのかと勘繰りたくなる。それほどに不遇な扱いです。心理描写のデタラメ加減といい。
 次のイルカ回(おまけでアシカ出演)でも、似た状態になっているんですよね。イルカがメインヒロインでアシカは不遇の扱い。ちなみに漫画(内藤版)ではアニメ版でこういった脇役以下の存在に貶められたゲストが救済されています。まだ完結していないため、けもフレ2のストーリーを残したままではいずれ救いきれない者が出てくる可能性が十分にありますが……今はまだ大勢が救われている。

 さて、遊具が壊れた後、ジャイアントパンダはレッサーにお礼を言うシーンがあります。(カラカルが急に「泣けてきちゃった」と言い出すのが地味に不愉快なシーン)
 施工不良と引き換えに得た、マッチポンプに近いですがピンチに助けようとした(助けられなかった)ことへのお礼。せめて助けるのくらいは成功してもよかったのではと思わなくもないですが。パンダは誰がメインで直したのか知らないため、レッサーが内心で自分のせいだと思って追い詰められていてもジャイアントに悪意はないでしょう。眠り癖のある自分と遊んでくれる友人という部分はキュルル達が来る以前の話であり、長年の付き合いで見抜けないようなら主人公たちが来るまでは有害な嘘つきレッサーという欲は発生せずにいたのでしょう。この作品にしては珍しく、一切の悪意や損得勘定抜きの感謝の言葉です。2話と7話と……ほかに素直な感謝シーンはあったかな? どちらも悪意が漂う回であるため、わずかな癒しでしかないのが残念ですが。あと、さっきまで攻撃的だったカラカルが急に友情に感動して泣けてきたといわれても不愉快なので画面外でやって欲しいです。
 友情が確かめられてよかったと周囲からも言われますが、レッサーが途中で見せていた劣等感は何も解決していないんですよね。自信を得るはずだった修復作業は失敗して、彼女には「努力はした」という最低限の結果しか与えられない。最初に探し物をしっているから案内できると言ったのもジャイアント、戦いで大活躍するのもジャイアント、別れ際にヒトを探すフレンズがいると教えてくれるのもジャイアント。悩みを抱えるフレンズがいたなら解決しなければいけない決まりなんてありませんが、何も得るものはなかった。ジャイアントから友人として認められて、その成果さえあればよいと言われるかもしれませんが、代わりにレッサーの性格に問題がある可能性が掘り起こされたために、嘘つきが本当に反省したのか、実力では失敗するという経験ばかりを増やしてしまった彼女が嘘に頼らず済むのか。不安ばかりが残る。
>やっぱり私って何の役にも立たないんだ
 これは同情を引く演技で許してもらおうとしたのではなく、本心からの言葉でしょう。キュルルは感情を吐露したレッサーを諭すのではなく、矛盾だらけの甘やかす言葉で煙に巻いた。理に反する褒められ方だったそれらは、レッサーがジャイアントパンダ相手に善をなそうとしても同じ状況を再現することはできません。嘘つきの果てに偶然の成功があったわけでもなく、運任せの道案内に努力できる部分はなく、役に立ちたいと口で言っただけで感謝をされた。得意なワザを活用しても、努力可能なことを努力をしても直接そこを褒められるのではなく、他人の手柄に近いことをあなたの成果と褒められ、しかし能力不足の自分が頑張ってしまったせいで友達に怪我をさせそうになった。
 キュルルと出会う前の行動はパンダから好評なものの、彼女が口にした「守ろうとしてくれた」はマッチポンプで得た機会であり、また奇しくもキュルルと同じ評価方法である「~しようとした」です。労苦でも結果でもなく、意欲を演出することだけがレッサーに感謝と称賛をもたらしている。パンダの理解者は希少という、レッサーの自信につながらない形で褒められているため、これではジャイアントパンダに新しい友人ができたら劣等感がムクムクとわいてきてしまうのではないか。キュルル達は通過していく存在でありライバル候補にはならないのが幸いですが、レッサーがちっとも肯定されないままなので暗い気持ちになります。もう嘘を吐かなくてもよくなるように、何かを彼女に与えることはできなかったのでしょうか。先程述べた小さな積み重ねがあるだけでも違うと思うのですが。

 ところでセルリアンがフレンズではなく遊具を破壊していきますね。今までとは行動原理の異なる敵の搭乗は、続編の興味を引く要素のはずなのですが……これにも特に理由が設定されていない。最終回まで見ても不明。なぜこんなシーンを?

 別れ際に絵をプレゼントしますが「本作品はキュルルが毎回自作の絵を贈り物にする」をノルマにしているものの、なぜプレゼントとして価値があるのかは描写しないため説得力がありません。そのため、勝手に自慢して押し付けてくる印象になる。ジャイアンリサイタルですね。無意味な会話とギャグは多く挟んでいるのですし「そっくり。みんなに見せたら驚くぞ」とか「上手だね。私にはつくれないけど、かわりに私はこんなことが得意なんだよ」と言わせるだけでプレゼントする価値があると受け取ってもらえるはずでしょう。
 まだ2話なんです。前作とは異なる、決まった品物をプレゼントフォーユーのイベントを定着させるためには下準備の交流が必須であり、それ抜きのシナリオで、用意していた絵を渡しても「いつものね」と省略部分が背後で進行していた扱いでは見てもらえません。手品のように急に絵が完成済みであることも「いつ描いたんだ?」となりますし、完成品は価値ある物なのに描いている途中は誰も制作過程に興味を持たないのかといった問題もあります。前作でカレーの鳥は興味深そうに調理を観察していましたが、完成品だけ欲しがるよりもそちらのほうが描写として自然でしょう。これらの前置きを無視してコメディパートを削らせない監督の時間配分感覚は明らかにおかしいです。監督としての域に達していないように感じます。

 何も価値のある情報を思い出せていないのに、意味があったとキュルルが言い張って、次の目的地へ。何度見返してみても、このスケブ予言から絵を選んだ後に、近づいてくる目的地がそっくりーは異常です。

 場面は変わって探偵コンビたち。今のところは特によくも悪くないですね。

・予告パート(通称本編)。
 コツメカワウソが行動を伴わない、想像しただけでたーのしーと言うのは、こんなキャラだったかなとちょっと困惑。しかし、アルパカの塩を足して「海にする」は素敵な発想だと感心しました。それが塩水だと知らない子が飲んでびっくりするオチへと繋げるのも王道でいいです。
 アニメ本編とのあまりの落差に、どこかからネタを借りてきているのかと疑ったこともあるほど質に差がありすぎる……。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?