3月11日を迎えて

誰からともなく、10年前の今日はどの様な状況だったかと話になった。

家族で改めて話すのは、10年前以来始めてである。

幸いなことに、親族を含め近しい友人も、大きな被害に合った人は居なかった。

東北に住む友人は山形であるため、それ程の大事にはならずに済んだ。

来週浦安に引っ越す予定だったのに、周辺の液状化の関係で引っ越せず、社宅に2ヶ月位長く居させてもらったのが、一番影響を受けた知人かもしれない。

息子は、前年卒業した高校の卒業式の予行練習に遊びに行き、部活の後輩の卒業のお祝いを、その後にする予定だったらしい。

入場の練習の足踏みを始めた、まさにその時の地震だったそうで、別の意味でも実に驚いたらしい。

在校生は全員グランドに集合がかかり、在校生じゃないけどと自分達も集まったそうだ。

そうしたら、去年の担任に在校生で帰れないやつがたくさんいるんだから、卒業生のお前達の面倒まで見られないのて、充分に気をつけてさっさと帰れと言われたそうだ。

前年までに耐震工事が終わっていたし、場所が学校で訓練もしょっちゅうやっていたから、不安は全然なかったよと話していた。

確かに、家族で一番安全な場所に居たのは、彼だったろう。

実は私の会社は、その日金曜から北陸へ社内旅行へ行く事になっていた。
かなり具体的な事まで決められていたのだが、諸事情により中止になってしまった。

本来なら休みで遊びに行っていたのにと話しながら、普通に仕事をしていた。

実はラッキーだったのだ。

外に出ると、目の前の駐車場に停められた車は大揺れで、警報がビービー音をたてていた。

すぐそばの駅は、当時工事中だったので、巨大なクレーンが恐ろしいほどに揺れていて、こっちに倒れてきたらここまで届くだろうかなどと考えながら見上げていた。

しばらくすると電車が停まっているため、大勢の人が前を歩いていた。

○○の本屋は本が散乱してるぞと、通りすがりのおじさんが教えてくれた。

それによって、かなりあちこちで影響が出ているらしいのは知ったのだが、社内は倉庫も含め何事もなかったので、そのまま定時まで仕事をして帰宅した。

どれだけ大変な地震で被害が甚大であるかを知ったのは、帰宅してテレビをつけた時だった。

様々な津波の映像。

空港が本当に港になってしまっている状況。

信じられない気持ちで見入るしかなかった。

その後数日間の原発の様子

計画停電等、様々な影響はあった。

そして10年

あれから我々は何かを学べただろうか?

政府は何か対策を立てて、具体的に進んでいるだろうか?

未だ避難を強いられている方も少なくない。

原発はどこまで何が出来て、何が出来ないでいるのか伝えられる事もなくなった。

10年は長いのか短いのか

穏やかで暖かい春の陽射しの中、10年後の今日あの時間をもうすぐ迎える。

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