京都-複合感情
"その土地"とそれ以外との境界はどこにあるのだろうか?
後部座席に立て掛けられた機材の脇、車中泊の間コンタクトを外すことのなかったせいで乾いて滲んだ視界が、11月の早朝、薄曇りの隙間から鈍く溢れる光に縁取られた山科盆地の稜線を捉えた際にその解は得られた。
想定外の冷え込みと睡眠不足で鈍く痛む頭を抱えたまま、いつの間にかすっかり馴染んだ車内で揺られながら、玉虫色に光る追憶の被膜、その内側に入り込んだ感覚が確かにあったのだ。
境界面が為す泡沫の内側は鈍く、慣れ親しんだ倦怠で満たされていた。
茹だる夏の夕刻に湿気を酷く孕み静まり返った見知らぬ住宅街の只中にいるかのような、午睡の後に差し込む斜陽に照らされた子供部屋に一人ぼっちでいることに気が付いたような、そういった類の断絶がそこにはあった。あるいは取り残されて淀を形成した時間それ自体だったのかもしれない。喘鳴を上げる自動車だけが今を生きている自分を過去に確かに存在した停滞から切り離していてくれた。
車窓から吐き出した紫煙は白く色づいた呼気と共に底冷えの盆地に少しだけ留まってすぐに掻き消えた。
記憶の中にある過去はいつだって綺麗で、暖かな潮流のように常に背中を押してくれている筈だった。だが、その土地はそうした合理化を、虚偽を咎めてくれていたのだ。
それは瘡蓋を剥がして爪を立てるような、倒錯した甘美な痛みだった。
すまし顔で日常を畳んでいく今の自分に対して、過去の自分が虚飾を責め立て罵倒するような、罪悪と自罰とが綯い交ぜになった感情にある種の安心感を覚えたのだ。
あの鳩尾の鈍さをその土地がもう暫くの間はもたらしてくれますように、そんな情けない哀願を今この瞬間も抱いている。多大な自嘲を込めつつ。