#5 茶禅一味と禅茶一心

10月27日(月) 

 週末にENJOY KYOTO Isuue7の校了を迎えました。今回は「わびさび」という日本人にとっても難しくて抽象的な概念をテーマにしてみました。そこであらためて茶道や禅を勉強したり、お茶会に参加してみたり、取材を兼ねて茶人や禅僧の方にお話を伺ったりしていくなかで、おもしろい発見をしました。それは、その道を究めた人のほとんどが口をそろえて「大事なのは型じゃない」っていうんです。 

 茶道にはいろんな流派があって、それぞれに袱紗の位置が違ったり、お点前のやり方が違ったり、来ていく着物の感じも流派ごとで異なったりするわけです。だから若い人やはじめての人にはそこが大きなハードルというか敷居の高さになっていて、あとらとこちらを分けているように感じるんだと思うのです。実際ぼくもそうでした。ところが皆さん「型はまあ、あまり気にせんでも」と。これはなんだろう?と思いました。 

 自分なりに考えたことは、つまりこうです。千利休の師匠の武野紹鴎はそれまで唐物と呼ばれる中国の高級な器なんかを使ってた茶道において、釣瓶を水差しにしたんですね。炉旧自身も山に生えていた竹を切って花入れにしたり、身近にあるものを代用したんですね。特別なものを特別な人が使う特別な会ではなく、お茶会をもっと何気ないものを使って生活の身近なものにしようという試みだったと思うんです。そういうのを「見立て」っていうんですけど、それはたぶん「生活の作法」なんです。 

もともと茶の湯の作法の多くは、修行中の禅僧がたとえばお膳のどこにどの器を置くか、どういう風に食器を手にしていただくかとか細かく作法が決まっていたところから来ていて、それはもともと生活のあり方じゃないかと。なぜ型があるのか?そこをもう一度問うと、最後には心の問題になる。不快な音を立てないとか、あまりガサガサ動かずより少ない手数でお茶や食事をいただくために、効率的で最小限の動きを決めたものです。つまり周囲と美しく調和し心をひとつにするという目的が先に合って、その実現のために後付けで作法が生まれたたはずなのです。

 そう、はじめは心だった。自分の真心を無言で伝えるための動きの規定であり、その規定が作法です。ところが時代とともに作法ありきになって、流派ができて、心がおろそかになっていく。考えてみるとそういうことって、いまの社会のいろんなところにありますよね。人間ってじつは文明が進歩しても、やってることはそんなに変わらないんだなあって、そういうことがふっと自然にわかるのも京都の良さじゃないかなあって最近思うんです。

それではみなさん今日もお元気で。I hope you enjoy Kyoto!

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