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入院騒動

週末に緊急入院することになったことの発端と顛末です。結論から言うと、脳梗塞を疑いましたが、結果的には一過性の脳虚血発作で無事2泊3日で退院できました。今はよくわからないのですが、重要なターニングポイントにもなりそうな気がするので、備忘録として書いておくことにしました。


1.ことの発端

金曜の夜、小児科クリニック勤務を終えて、最寄り駅のスーパーで買い物をして帰宅。甘えん坊で、やたら私のことが大好きな娘(中2なんですが…)が、犬のように玄関に飛び出してきて「ママ〜❤︎」とまとわりついてくるいつも通りの光景。前世は私の愛犬だったに違いないといつも思います。

「ちょっと待って、病院帰りだから、とにかく手を洗ってうがいするから。」

と、ハグを待ち侘びて横にくっついてくる娘(完全に犬)を待たせて洗面台に向かうと

「ママ、右の顔が変!下がってる!」

と娘。

「えー、そうかな〜?確かにこわばってる感じはするけど、寒いところを歩いてきたからじゃない?」

と答えつつ、よく見ると、確かに右側の瞼が重く、鼻翼、ほうれい線、口角、ほおが下がっています。これは顔面神経麻痺かな〜、だったら早めのステロイド投与が有効だから明日受診するか…と考えて、念の為、末梢性と中枢性を鑑別するために、眉をあげて額のしわ寄せテストをしてみました。(鍼灸師の専門学校では一通りの疾患と神経テストなど教育を受けるのです。)すると、眉は左右対象に上がり額にしわが寄ります。え…一瞬わからなくなり、ググりました。やはり額にしわが寄るのは、中枢性です。

え、まずいじゃん、そう言われたら右腕も重い…。脱ぎかけたシャツをもう一度着ようとしたら、ボタンがうまくかけられませんでした。

こういう時って何科にかかればいいんだっけ。ちょっと待って、嘘だよね。とりあえず様子見たい。さすがに軽くパニッくって医師の親友に電話をしました。

「こんな症状が出てるんだけど、何科にかかったらいんだっけ〜?」

「それ私に電話してる場合じゃないから、早く救急行って。」

電話の向こうで、彼女の夫さん(医師)も早く行けと言っているのが聞こえました。

私としては、救急はすごくかかりたくなくて、大騒ぎして何でもなくて帰ってくるのが気恥ずかしいし、面倒くさいしと躊躇しました。とりあえず一晩寝てから考えよっかという気分でした。

娘の言葉が後押ししました。

「ママがそう言って、大丈夫だったためしがないじゃん、ちゃんと行って。」

確かに、ちょうど1年前に手術をしたばかりですし、アキレス腱を切った時も、これでなんでもなかったら恥ずかしいと思って救急車に乗っていました。

これが脳梗塞なら行動の初速が予後につながるので、そんなことは言っていられません。万一しゃべれなくなってからでは遅いので、自分で119にかけました。(ちなみに、携帯より、なるべく家電の方が良いです。途中でしゃべれなくなっても場所が特定してもらいやすいので。)

まあ、その日の脳外科の当番の病院を教えてもらうのでもいいと思いました。(ちなみに、我が市内には大きい病院がないのです。救急車を呼ぶと、近隣の市に運ばれるので、とにかく遠い…。どの市に運ばれるかも重要なポイント。)

「音消して来てもらうわけにはいかないですよね。」

と聞くと、やはりそういうわけにはいかないらしく。(そりゃそうです。)

マンションの部屋まで来てもらうとおおごとなので、エントランスまで自分で行くと、伝えました。大型マンションなので、エントランスまでは結構な距離。歩いているうちに、足も重くなっていて、気づいたら普通に歩けていませんでした。

ちょうど夫が在宅勤務だったので、家族は揃っていたのが幸いでした。まあ、この状態は様子見だとしても一泊はするな…と思い、夫について来てもらうかどうか迷いました。子ども達だけで残して行くと不安でかわいそうだなという理由と、夫自身がコンディションがいまいち、5月には手術を控えている身なので無理させるとコトだな…という理由でした。ですが、最悪の場合、私がしゃべれなくなるので、ついて来てもらわないとダメだなと判断。

どの市に運びますかと聞かれましたが、家族のアクセスも重要。昨年は私が、次の5月には夫が手術する病院にお願いすることになりました。

私の勤務先の同僚看護師さんにだけLINEで連絡をしました。夫さんがその病院に勤務している他、医大生のお嬢さんがうちの娘の家庭教師をしてくれているつながりがあります。残された子ども達を案じて、娘に大丈夫かLINEをしてくれたそうでした。

後で聞くところによると、娘は気丈に送り出してくれましたが、ベランダから救急車を見ていて、泣いてしまったそうです。息子(小5)は堂々たるもの。「〇〇ちゃんは、ママの何を心配しているの?」と尋ねるその落ち着きぶりは姉を悔しがらせ、2人で作っておいたカレーを食べて、スターウォーズを見て寝たそうでした。

2.病院についてから

18年前になりますが、私は、大学病院と関連病院で、脳血管疾患の患者さんの後遺症の治療に当たっていました。そのため予後の感じのイメージはついていました。

普通に歩いて帰って来たのに、数十分後には普通に歩けなくなっていたというのは、やはり気のせいではなくて、何かしらあるなと思いましたが、救急車に乗ってからは、意識や呂律に影響はなかったので、あってラクナ梗塞か一過性の脳虚血かなと自己判断していました。だったら早めの血栓溶解療法などで、よくなるだろうなと考えていました。

今くらいの麻痺なら、スマホは打てるし、歩くのも跛行だけどなんとかなる、今の仕事はできないけど、事務職ならできる。でも、それ以上進むと、子どもの世話も、仕事も難しくなるから勘弁してほしいと思いました。

意外と冷静に超高速で色々なことを考えました。ちょうど仕事も次のステージに進もうとは考えていて、それが早まるだけだな…と。とにかく1番に考えたのは子どものこと。我が家は夫と息子が遺伝性の難病のマルファン症候群なので、私は長生きしないといけないのです。さすがに、45歳で脳梗塞は想定外、まいったな〜とは思いましたが、ピンチ慣れしているので、不幸だとか不運だとか、そういう悲嘆に暮れることはありませんでした。だってそんなこと嘆いたって無駄なんですもの。

病院についたら、あとは、まな板の上の鯉。PCRに始まり、あれよあれよと様々な検査を受けることになりました。その日を遡ると、午前中は執筆など事務仕事をしていて、午後から小児科に出勤したのですが、その時に頭が痛いとは言っていたと夫も証言。仕事中も変な目眩があったのですが、月経中で量がいつもより多かったからかな〜と思っていました。

画像ではその時点では梗塞巣は見つからず、初期だから見つからないのか、大丈夫だから見つからないのか不明だったので、入院して翌日再確認することになりました。軽度だけど麻痺は確認できるし、なんとも言えない状態。とりあえず大量に輸液をして、流れを良くし、1週間ほど入院して様子を見ることになりました。

脱力以外の症状は進まないので、私もあとは様子見なんだろうな〜と、とにかく来週の仕事の調整だけを考えました。とはいえ、寝て起きたらもっと動かなくなっていたら怖いなと思うとなかなか寝付けず、連絡しなくてはいけないところを整理して、メールの下書きを作ったり、親友や同僚の看護師さんに状況報告したりしていました。

さすがに不安な気持ちを、フォロワーの少ないTwitterの趣味アカウント(ラグビーではしゃぎ、推しの選手に秒速で反応するのが主目的のアカウント)にだけつぶやいたら、思いのほか、たくさんの方にご心配をいただいてしまい、恐縮しています。

リアルな私を知る人のいないお気楽アカウントではなく、もうこちらは共通の選手を日々応援しながら、お互いを慮るめちゃくちゃファミリーで、あたたかいつながりのあるアカウントになっていることを実感しました。

気になっていたのは、娘の週末のラグビー。私が送ってやれないので、どうしようかと。中学生女子がラグビーをできる環境は想像以上になくて、やっと見つけた環境ですが、なにぶん遠方なのです。せっかく始まったばかり、本人も楽しみにしているのですが、夫が送ってくれて無事に行って来れたようでホッとしました。

さて病院は、このご時世なので、面会は禁止。荷物だけナースステーション経由で送り届けてもらいました。夫には、PCと充電器と水を頼みました。その他、着るものや洗面道具系は娘が揃えてくれました。バッグを開けると、色々考えて小さいポーチやジップロックに小分けにして入れてくれた娘の心遣いが見えてキュンとしました。日頃私のストーカーのようにくっついているだけあって、ほしいものがわかっていました。今や誰よりも頼りになる存在です。

そして翌日。再度撮ったMRIでも梗塞巣は見つからず一過性の脳虚血発作であったようでした。原因は不明です。血圧も高くなく、家族にも既往はいません。ガンか心疾患の家系なので、ノーマークでした。がん保険じゃなくて、三大疾病特約をつけておけばよかったなと救急車の中で思ったくらいでした。

予定より早く月曜には退院できることになりました。

3.後遺症

一過性の脳虚血発作の定義は脳梗塞の症状が出るが24時間以内に消失するものです。ところが24時間経っても、私の場合、脱力症状が残っていました。箸は持てる、でもつまめない。歩けるけれど、膝に力が入らない。一応まだ若いし、筋力はあるので代償できてしまうので、神経学テスト、筋力テストで異常が出るほどではないのですが、明らかに脱力はある。でも担当医の先生には、これをしつこく訴えても、神経質な中年女性だと思われる気配がしたので、あとは自分でリハビリして治そうと思いました。色々自分で自己分析すると、母指対立運動に不自由がありました。巧緻運動障害が残っていました。

1週間もすれば消えるか、残っても慣れるであろう症状に思えました。

いつもはなんなく使っている道具ですが、いざ麻痺症状が出ると、難易度に差があることを実感しました。私の仕事は相当緻密な作業だったのです。

スマホ<キーボード<箸<ペン<鍼灸

人に安全に鍼ができるレベルでないと困ります。とりあえず、自分で知る限りのリハビリを始め、指の体操を始めました。使いづらい状況でも使った方が、機能回復や神経回路の再教育のためにはいいとわかっていたからです。本当は歩行訓練もガンガンしたかったのですが、病院的には転倒されると困るのは重々承知なので、こっそりカーテンの中でウロウロしていました。

18年間今の仕事をしていますが、自分の体調の理由で仕事をキャンセルするのは、15年前の切迫流産の時以来でした。あちこちにご連絡し、お詫びしました。

非常勤勤務の大学病院はみっちり予約が詰まっていて、月初は木金の2日勤務。その他、講義の撮影なども入っており、めちゃくちゃご迷惑をおかけすることに…。もう干されるかもしれないという覚悟もしていました。(今もまだしています。)しかし上司は非常に温かく親身になってくれました。

症状をメールで報告すると、その診断と矛盾する症状への困り具合を一瞬で察知し、大学病院で再検査してもよいこと、私が一番心配している巧緻運動障害のこと、講義のために難しいテーマを与えてしまって負担になっていたのではという心配など、心遣いが身に沁みました。

そして作業療法士の先生に連絡し、リハビリメニューの処方も依頼してくれたのでした。その他のドクター達もとても親身になってくださって…。女性の多い職場なのですが、皆それぞれに背負っているものがある先輩ばかり。そもそも私が勤務する科は、名もなき痛みや複雑な痛みを抱えて困っている方を救う科。ご迷惑をおかけするにも関わらず、懐深く、私の状況を受け止めてくれました。

これまでも数カ所大学病院に勤務してきましたが、戦力にならなければ去れという空気の現場でした。私自身、もう使い物にならないなら、もっと優秀な知人がたくさんいるので、誰を紹介しようか…というシミュレーションもしていたのですが、まずは私はよくなるように全力を尽くそう、その上で結果を判断してもらうしかないと思いました。

その他、自分のできる範囲内では、代診が必要な方には、信頼できる友人に依頼、待てる方には一旦保留とさせていただき、患者さんにもあたたかいお気遣いをいただいてしまいました。

ここで無理をしても誰も喜ばないし、痛々しいだけ。幸いやるべきことは自分でわかっているので、しっかりリハビリと療養をさせてもらうことにしました。

4.ことの顛末

結局、いまだに何が原因かはわかりません。

今回の騒動を知らせたわずかな方々は皆、過労であろうと言います。正直言って、後ろ盾は乏しく、背負っているものは多いです。忙しくないと言えば、嘘になるけれど、フリーの醍醐味で、やりたくないことは一切やらないし、やりたいことしかやっていません。相性の合わなそうな人とはどんどん距離を置けるし、選択できる範囲では、結構好きなように生きているつもりでした。平均寿命と考えても人生は後半戦、働き方をシフトチェンジをしようとしているところではありました。

無理しないでと言われると、まあ色々あって大変だけど、私はThat's my lifeと思って、それなりに楽しく生きているつもりなので、実は痛々しく映っていたのかな…と思うと、ちょっと悲しくなるところもあります。

この状況に対して、どうすべきかのシミュレーションは、症状の展開別に超高速で救急車の中でしてしまったので、今は何も出てこない状況です。忙しさに対して、どう改善すべきかは、周りとの兼ね合いもあるので、決めなくてはいけない時にまた考えていくことにします。考えても答えが出ない時は、考えない。それに尽きます。

心労と言えば、先週、息子の診察に行った際に、この1年で骨変形が進んだことについて、先生と振り返り、色々と思うところもあり、何より息子に「なぜ僕はマルファンなの?」とポロリと泣かれてしまったのは、必要以上に悩まず、やるだけやったらホゲっとしている私も、さすがに切なすぎてへこんでいました。これだけは親として最大級に辛いことです…。

退院翌日、信頼できる先輩の鍼灸治療を受けに行ってきました。先にも書きましたが、脳血管障害の後遺症の治療には自分も携わっていたので、早めに一度行くと良いことがわかっていました。後悔のないようにできることをしておくのは大事ですし。治療もですが、私の体質や状況を踏まえて、体に起きたことを一緒に振り返ってもらえたのがありがたいことでした。

色々わからないことだらけですが、とりあえず貧血、脱水、偏頭痛辺りが影響していそうな感じです。過労に関しては、年明けからは仕事をセーブしていて、睡眠も意識的によくとっていて、週2〜3日は走ったり筋トレをしていて、しかも緊急事態宣言で週末の予定がなくなり、私的には、かなりゆとりある生活だったので、ちょっと意外というか。

最近難しい原稿に取り組んでいて、「農業について10分で話す」と言うくらい漠然としたお題を、全方位に正しく、ディスられなそうなことを、八方美人に書こうとしすぎて頭がバグったと言う説もありますが、それは意外と正解かもしれません。今回の疾病利得として、得られたのは締め切りの延長でもありましたし。

まだ私の人生に置いて今回のことをどう意味付けをして良いのか、わからないのが正直なところです。

ただ、自分で思っていた以上に、いろんな方が私を助けようと思っていてくれて、相談したり頼ったりすることを負担に思わないどころか、喜んでくれることに気づきました。もしかしたら、私がすべきことは、自分のやることを整理したり、諦めたりするのではなくて、もっといろんな人の力を借りること、甘えることなのかもしれないという気はしています。

そして痛切に思ったのは、子どもたちのために私は長生きしなくちゃいけない、長生きしたいということ。自分の人生でこの2人に出会えたことが最大級の宝だと思っているのです。

以前に見た夢があります。

私が人生を終えて、どうやらあの世に行く新幹線に乗るらしく、1つだけこの世で好きなお菓子を持っていってよいということで、キオスクで選んでいるのですが、人生に悔いなしと思いつつ、ふと、子どもたちに会えないことだけが心残り!また次の人生で近くで過ごせますように!と心から願うという夢でした。

たぶんこの2人は前世があるとしたら、私の愛犬と愛猫だったんじゃないかと思います。今度は人間の子に生まれておいで、いっぱいかわいがってあげるからね!と約束でもしたんじゃないかな。とにかく私はこの2人のママでいられることが最大の喜びで幸せ。大人になるまでの時間を一番近いところで、ママとして愛されて見届けられるのが毎朝起きるたびにうれしいのです。

なんとなく私は親にはならない人生なんじゃないかな、と思っていたのに、やって来た子どもたち。これからも、もっともっと長く一緒にいられますように。