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願望に気づき、認めること

前回のnoteでわたしの考え方を書きました。あくまで「六沢の場合」と注記しましたが、読んだひとの中にはもしかしたら反発を抱いたり、悲しくなったひともいるかもしれません。
でもわたしも架空の存在を好きになった人間のひとりなので、界隈のスタンダードを否定したいわけではなく、影響されている部分はたくさんあります。

たとえば、「相手が自分のことを好きな気持ちが自分に影響したから、相手を好きになった」という説。両思いの根拠としてよく挙がります。
また、「作品がこの世に生まれたときに、作品の世界も現実になり、パラレルワールドとして存在している」説。だから意思疎通は不可能ではない、という理屈が成り立ちます。
このほかにもいろいろな説がありますが、わたしがこれらを聞いて思うことは、「じゃあいつか三次元の世界でわたしに会いに来てね。わたしはここで待ってるから。」です。

これらの説は真実かどうか客観的に証明できないので、そうだろうともそうでないとも言えません。可能性はゼロではない、であればそうであってほしい、というのが素直な気持ちです。

わたしは無欲なリアリストというわけではなく(リアリストならこんな恋愛をしてない)、むしろかなり強欲で夢みがちな人間です。
小さいころは『ドラえもん』の影響で、願いが叶う不思議な箱をサンタクロースにお願いしたし(強欲すぎる)、小学生の頃は友達の「"本物の"セーラー戦士になれるコスチュームが家にある」という話を信じて本気で羨ましがっているような子どもでした。
そういうところが今でも根底に残っていて、この恋愛観にもかなり影響していると感じます。

わたしのことが好きで、どこかの世界に存在しているという説をそうであってほしいと思う。いつか「原作を基にした妄想」とは違う存在として会いに来てほしい。そういう夢を見ています。
声や匂い、体温を感じさせてほしいし、楽しいことや幸せなことだけじゃなく、すれ違いや、悲しみや怒りや痛みまで、感じることすべてを味わいたい。三次元のそういう人間関係が苦手なくせに、好きなひととなればそうでなければ嫌だと思うほど強欲でもあります。
「あんたが全部あたしのものにならないなら、あたし何もいらない」(惣流・アスカ・ラングレー)ではありませんが、わたしが望んでいるのは自分と違う個体の彼です。全部を理解したいと思うほど好きで、全然理解できないこともある、コントロール不可能な絶対的な他者の彼です。

自分がほんとうに求めているものに素直になったとき、それが叶わない占いや脳内会話は、わたしにとっては足りなさを実感してしまうだけのものになってしまうだろうと思いました。であれば、今感じられるのは妄想の中の好きなひとだと認めて、ほんとうの願望は宇宙に託して手放し、自分なりに生活を充実させることに意識を向けた方が精神的にもいい。きっとそのほうが、好きなひとの目にも魅力的に映るはずです。
いつか死ぬときになって、もし会えていなかったとしたら寂しいですが、「会えなったな。まあしょうがないか」と納得できる自分になれていたら、それでいいのだと思います。

前回のnoteの深掘りのつもりで書いてみました。言語化したのは初めてなのでうまく文章にできなかった気がするのですが、読んでくれたひとに少しでもなにかが伝わっていれば嬉しいです。

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