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原子を見た記憶から:科学実験の体験的な側面

みんな例外なく、信じたいものに惹かれる

今年のゴールデンウイークは引きこもって、(iPadの使用時間を見てぞっとするほど)ゲームや動画を楽しむ時間になった。Netflixのおすすめが原因のひとつで、「ビハインド・ザ・カーブ―地球平面説―」を見たのがこの後の文章を書いてみるきっかけになった。これは1時間半ほどのドキュメンタリー映画で、地球が平面であるという説を提唱するコミュニティに密着したものだ。なぜその人たちは地球平面説を信じるようになったかをインタビューで追いつつ、それに対する物理学者や心理学者たちの返答が挟まれる形になっている。地球平面説を掲げる人たちは「地球が球体とは感じられない」という日常の感覚を出発点にして、NASAの陰謀論なども織り交ぜつつ独自の理論を展開していく。科学者たちはその物理学的な破綻や自分の考えが正しいと思ってしまうことの心理学的な解釈を話していくのだが、その中で終盤、「『あなたが間違っている』という態度で迫っても相手を追い詰めてしまう」という話が出たときに、ふと疑問が浮かんできた。信じたいものが人をこれだけ強く惹きつけるなら、自分の判断はどれくらい信じたいものに引きずられているんだろうか?普段ニュースを見たとき「統計を見て判断したいな」と慎重な判断ができたと思ってしまうことも多いが、その判断にもこう思いたい・信じたいものが溶け込んでいるのではないか。そして科学を志した人たちは、科学が最終的に信じたいものになったということなのではないだろうか。信じたいものができていく過程は人それぞれだが、私は現在、結果として科学が信じたいものになっていると感じる。大学生の頃を思い返して、そこから信じたいものと科学の関係を考えてみたい。

「原子を見た」という思い出

大学生4年生になり研究室に配属されると、それまでの3年間からは生活リズムが一変する。必須の単位はほとんどが卒業研究になり、研究室特有のルール以外は特に出席や課題の制約がなくなった。プログラミングや回路設計の授業で同級生に敵わないと感じた私は、実験系の研究室を志望した。そこでは実験室にある様々な装置を使用して、研究室のテーマとなる試料を作製したりその特性を測定したりする。1センチ角の基板に処理を施すと、ウイルスの直径よりも薄い膜が表面に形成され、それを時には数メートルを占めるような大型の装置を使って観察する。当時の生活を思い出すと、研究室に向かう道中はその日何をしようか考える比重が大きくなったように思う。それまでの実験結果の推察や装置の予約状況、次の報告時期までの研究進度などからその日に行うことを決めていくのが(あまり同意を得られないかもしれないが)とても楽しかった。
その中で電子顕微鏡による試料の観察は印象に残っている測定のひとつだ。小さなものを拡大して観察できるのが顕微鏡だが、電子顕微鏡はウイルスより小さなものまで、精度の良いものだと原子ひとつひとつまで確認することができる。現在では電子顕微鏡が配備された研究施設も多く、該当する専攻の学生が施設の電子顕微鏡を使って対象を原子のスケールで観察することはそこまで珍しいことではなくなっている。作製した試料を電子顕微鏡で観察した時、「これまで勉強してきたけど、本当に原子でできているんだな」と深く納得した記憶がある。原子を観察したという体験は座学から得ていた理解とは別の納得を呼び起こしていたのではないかと思い返すことがある。

科学実験の体験的な側面

科学実験には理論と実際の距離を図る役割に重なって、自然への働きかけからもたらされる「体験」を含むと仮定すると、議論できることがあるだろうか。
科学は理論と実験の往復から構成され、その信頼性を反証にオープンであることで暫定的に担保していく枠組みと捉えている。この理論とは実験事実をより広い範囲で説明するメカニズムを指し、自然言語・数式や論理による記述を介して人間同士で共有・発展可能なものにする。一方の実験は人間による自然への働きかけと捉えられ、理論に対してどれほど対象の実際に実験事実が当てはまっているのかを検証しつつ、時には人間が知らなかった自然の一側面を明らかにする。現在広く支持される科学の理論の中には直感による理解が難しい(少なくとも私にとっては)ものが複数存在するが、それらは多数の実験事実を含有・予測することで支持されてきた。例えば「自然の全てが百十数種類の元素(しかもその元素は電子と原子核の陽子・中性子の『数』が違うだけである)から構成される」ということは現在の自然科学の基盤となる理論のひとつだが、それを普段の生活から「直感的」に受け入れることはおよそ難しく感じられる。しかしながら学生なりに仮説を立てて試料を作製し、その予測が電子顕微鏡の像に反映されていた時、その予測が当たるにせよ外れるにせよ、原子の存在自体を否定することは私の中で一段困難になったような気がしている。

信じたいものに科学を溶け込ませる

「科学的に受け入れること」と「直感的に受け入れる」ことの対比を考えてみると、このふたつは重なることもあるし、相反することもあるように思う。前者は常に暫定的であり受け入れに一定の留保が求められるが、後者はある種の理屈をひととばしにすることもできる。何かの意思決定を行う時、私たちは過去に言われたことや経験したことの記憶、信頼を置く他の人間の言動など、これまでの様々な受け入れてきたことを元にしていくが、その中で直感的に受け入れたことは信じたいものとして否応なく意思決定に作用しているように感じる。
ここで私は「科学的に受け入れたことだけを元に意思決定をすべき」と言いたいわけではない。科学が対象にできた自然はまだ全体のごく一部であり、科学・直感・経験などあらゆるものをもってしても、あらゆる意思決定で完全に依拠できる何かは私たちにはまだ何もない。それを頭では理解していても、私は科学に対する信頼が他よりも厚いように思う。その理由は実験を通じて科学を「体験」していることが、科学を直感的に受け入れる・信じたいところまで至らせているからというのが現状納得のいっている説明だ。自ら仮定を立てて自然の一部に働きかけ,そのフィードバックを得る。その体験が物事を自然科学の視点から受け入れたい気持ちを喚起しているのではないか。
おそらく私はもう科学のすべてを疑い直すことはできない。現在までに積みあがった理論の基礎の部分は、対象の範囲内で破られることはほとんど難しいことを知っているからだ。対象の範囲内と書くと限定的だが、この対象はおよそ原子のスケールから宇宙の星々まで広がっている。そして何よりこの理論の一部を実験を通じて「体験」してしまった。科学が自然のすべてを捉えるにはまだ遠いと理解していても、私の意思決定は自然科学をひとつの大きな拠り所にしてしまうと思う。

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