note、なんか好きじゃないんだよな

note、なんか好きじゃないんだよな

ソーシャルネットワークサービスとは利用者同士が仮想空間上で交流できるツールだ。いつでもどこでも誰とでも。しかし人間、適度な距離感が必要な場面は多い。長い歴史の中に湧いて出たばかりのこれらが、案外にも現代人の心を疲弊させていて、私もいつしか他の誰とも繋がらないクローズドダイアリーサービスを求めていた。
行き着いたのがmediumだった。日本語圏の利用者が少なく、フォーマットも日本語対応していない、そこは日本語が極端に少ない空間。目に飛び込んでくる文字は英語に疎い私にとって記号でしかなく、情報を持たない。意味を伴う言語で発信しているのは世界で私だけ。それがどんなに心安らぐことであるか。しかし私の平穏は意外な形で終わりを告げる。
mediumへの新規投稿がデスクトップからでしかできなくなってしまったのだ。そんなまさか。ふと気が向いたとき、寝る前に寝っ転がって他愛もない文章をつらつら書くのが良かったのを、12年モノの起動の遅いPCをわざわざ立ち上げて座って文字を打つなんて、耐えられない。私とmediumの縁が切れた瞬間だった。
それで代替としてnoteにたどり着いたわけだが、やはりこの場所には日本語が多すぎる。しかしnote、まぁ使いやすいし機能も充実している。いやいやしかし、note、なんか好きじゃないんだよな。自分の投稿以外の全ての文字が英語になるボタンをつけて欲しい。

若者よ

仮想でない現実空間で人と交流する多くの機会が、ここ2年ほどで失われた。それでもようやく、少々警戒しながらも人と会って話すことが自然にできるようになってきて、今日はまさにそういう日だった。いつまでも自分が一番若者のような気がしていたが、今日集まったメンバーの中では自分が年長者だった。
卓を挟んでの会話は、対面でもどこかでお互い遠慮していて、それこそが人間に必要な、適度な距離感なんだろうと思った。それでいて、鮮度の良いリアルな言葉にそれぞれの思いが隠れているのが伝わる。
仕事の話、遊びの話、彼らはどれにも真剣だった。そして断片的に彼らの葛藤、努力、弱さを垣間見る。私もきっとそうだった。今もそうかもしれない。それでも、三十間近になって、ようやくこの先への道筋が見えてきた。のらりくらりと好きなことばかりやってきて、人や環境に恵まれ、運に恵まれここまで来たが、それでもその時々で、自分なりに考え、こだわり、持つべき役割に向き合ってきた結果が、ここにきて形になってきていると実感する。
きっとそれぞれにふさわしいこれからがある。
若者よ。

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