引っ越しに向けて荷物を整理していたら、6年前に在籍していた会社の研修パンフレットが出てきた。いくらか落書きがしてあって、それが良くできていたのでずっと取っておいていたと記憶していたが、どうやら違ったようだ。最後のメモページにこんなことが書かれていた(以下、少々長いです)。
当時、私は大学卒業後に就職せず、学生時代からアルバイトをしていた学習塾で契約社員として働いていた。元来自分がやる気にならないことはしたくない正確。就職活動も周りと同じようにしようと思えなかった。それならもう少し今やっていることを続けたい、そう思ったのだった。
かといって塾講師が自分に向いているとは思わなかった。私が在籍してた学習塾は、とにかく理想を語る会社だった。特に定期的に行われる研修は、その内容のほとんどはセミナーの受講のようなもので、技術や仕組みよりもまずは理想を掲げ、熱意を持つことを社員に求める会社だった。私はときにそれに心動かされつつ、一方で苦しくもあった。
要するに、私は自分が何をしたいかよくわからないまま、惰性のように塾講師の仕事を続けていたのだ。研修の場で心に象られるのは会社への尊敬と、周りへの負い目だった。
このメモのときの講演内容を、私は全く覚えていないが、指導する生徒たちが今後どのような社会で生きていくか、そしてどのように勝ち抜いていけるかについて語られたような覚えがある。そのときの何か取り残されたような気持ちと、それでもただ卑屈なだけではなく、何かしら違う生き方を模索しなければならないという決意のようなものを、このメモに書き記した覚えがある。
いかんせん講演内容を覚えていないので、今読み返してよくわからない部分も多いが、今の自分が共感できる部分もある。「過去のどのような過ちも、その時々においては誰かの理想であった」「人生は相対ではなく絶対」「仕事は私にとってあくまで仕事であり、運命や宿命、使命ではない」。
「主体的に生きよ」は、この会社の代表がよく言っていた言葉だ。私はここに、自分の目指す生き方が間違いでないことを見出した気がしている(しかし、今現在も到底何かの正解を得たような実感もないのだが)。この研修の半年後に、私はこの会社を辞め、今の仕事に就くことになる。私は今も仕事は仕事として淡々と、しかし小さな自信を積み重ねながら、どう生きるかを模索しているわけである。