縋るものがお互いにただ違うだけ


先日、初めて大事な友人から宗教の話?紹介をされた。
私もそんな年なのか〜なんて、呑気に聴きすぎた。
無理矢理ではなく、もしよかったらくらいの軽い感じだったから、まるで雑談してかのように話した。


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宗教 は、4度程、私の人生に登場した。

①高校生の時、友人と新大久保に行ったときに勧誘(お菓子をいただいて、話を聞いただけ)
②大学の必修科目。
③大学生の時、とても仲良くしてくれた友人のご家族がどっぷりその世界にハマってしまいすぎたために、困っているという話。
④私の大事な友人が救われたと話。

①と②の時は、何処か他人事だったと思う。
私があまり興味がなかったから、別世界の話なんだろうって、軽く聞いていただけだったと思う。
こういう考えもあるんだなーくらいだった。

③もやっぱり似たようなもので、救われた友人のご家族が宗教の勧誘をしているみたいだった。
辛さを抱えてしまってどうしようもなくて、どこに向かって生きていけばいいかわからない。
私にはまだその気持ちを理解することが出来なくて、どうしたらいいかわからなくて、ただ話を聞くだけしかできなかった。


そして、今回、④。私の大事な友人から宗教の話を聴いた。大事な友人だから、怖くもなかった。
ただ、その話をしようとした時の、するまでの表情の硬さや、話し方に異変を感じた。
宗教紹介の話以外の実体験の話を聞いて
多分、友人は救われたんだろう と思う。

だけど、不思議とその時の私には、無理矢理思い込ませているようにみえた。

『私は大丈夫、ちゃんと救われていなきゃ。
楽しいって思わなきゃ。』

表情が全然、いい表情じゃなくて。
どこか言い聞かせているようにみえて。

何に縋ってもいいから、
そんな顔しないで欲しい。
視界が私をとらえていなかった。
どこを見ているかはわからなかった。
その表情を消した声は、淡々と繰返される呪文みたいな言葉は、友人という色を消したみたいだった。
どうして、そんな表情なのか。
オススメの話を聞いているはずが、
表情は、とても正直にみえた。
宗教に縋ってもいい。心の大部分を支えてくれるものは、宗教だっていい。
でも、
いい顔して過ごして欲しい。
そう思った。
そうじゃないなら、
私はどうしたらいいんだろう。


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私はよく人生に迷う。
だから、その度に占いに行く。
選択肢がある中で自分で決断しなきゃならないのに、どうしても選ぶことができなくて。
何を選んだら、いいのかわからなくて。
でも、時間は待ってくれない。
学生のとき、就職に迷った。人生の進む道に迷った。


なんだか、海に浮かぶ船が今、どこを浮かんでいるのか、どこを目指せばいいのかわからない。
だけど、どこでもいいから、陸地に着陸するための指針となる方位磁針が欲しい。

そんな気持ちでいっていた。

過去には、新年度始まった4月に2つ程伺ったときもあった。
私が大学3年生になったときだ。

私は、占いに一つの方位磁針になってくれることを望んでいる。

例えば、この職種は合わないとか、こういった作業は得意じゃない?とか。
占い的に合う・合わないがわかれば、少しは進む道を絞ることができるんじゃないか、と。
他人任せ?運命任せ?ではあるけど、誰かが‘私’を教えてくれるのは有難かった。
私は私として生まれてからずっと一緒だから、わかってるけど、わからないから。

同じところではなく、違う占いに行った。
2人の占い師から聴く‘私’の被っている話とそれ以外。いいことはそのままで、悪いことは気をつけるようにした。

そうやって、私は占いに救いを求めた。
だからといって、実際に救われたかといえば、よくわからない。
占ってもらうだけじゃ何かが変わることはない。
ただ、その時にもってる不安の重さは少しだけ、軽くなったと思う。

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もしかしたら、私は占いに縋っているのかもしれない。
友人はただその対象が宗教だっただけなんだ。
何も怖いことはない。

3週間ぶりに会った友人の表情は明るかった。
一度も宗教の話はしなかったし、雰囲気もいつも通り。
楽しく色々な話をした。

よかった。少し安心した。
友人は全てを宗教に持ってかれたわけじゃない。
目の前にちゃんと友人がいる。
目を合わせて、話して、笑って…私が知っている友人。

私は友人から宗教の話を聞いたその日、過去に後悔した。
最近の友人もひどく傷つけられていた。
友人からメッセージのSOSに気づく余裕が私になかった。
職選びに失敗して、お金のことで悩んでいた。私は自分のことでいっぱいいっぱいだった。



友人から過去に一部だけ聞いていた痛みや苦しみの部分が、少し繋がった。小さな友人にとって、どれほどの重さを含んでいたのか、あまりわかっていなかった。
そして、小さな頃から抱えている重さが今も友人に影を差していることも。
今もそんなにわかっていないんだと思うけれども。


私はどうにか力になりたいけど、思い上がってはいけないと思う。
私が友人にできることは大したことは何もないんだ。
だけど、数少ない出来ることを溢してしまわないようにしないととも思う。
それは、無理にやるんではなく、出来る時に出来ることをしよう。
そのために、私は余裕を持たないと、周りをみることはできない。


よく自分の中にある重さを誰かに話せば、誰かが勝手に測って比べてしまう。なんてこともある。
ホントは比べる必要なんかないんだと思う。
人によって、1つの言動から受ける重さが違う。
それは、人がそれぞれ違う人間だからだと思う。
だから、比べるんではなく、ただその人にとっては、自分にとっては、どれほどの重さがあるかをわかることができなくても、感じてるままに否定しないでいたいと思う。

重さがあるということは、その時点で及ぼす影響が大きいはずだから。


辛いとき苦しいときは、何かによっかかりたくなる。
孤独を感じて寂しくて、縋りたくなる。
助けてと声にならない声で祈り、何かを求めたくなる。



残念だけど、そういう意味で私は大事な人を救うことはあまりできないと思う。
悔しいけど、重さの全てを取り除くことはきっとできない。
友人を救ってくれるものがあるなら、それが何であれ、私も手を伸ばしてしまうと思う。


一人で耐えるのは、なかなか精神力がいることに思える。そんな強さはなかなか持てない。だからこそ、縋れるものには、縋らせて欲しいとも思う。好きが縋るに変化することもあると思う。だから、きっと人によって、縋るものが違うだけなんだろう。
占い かもしれない。
宗教 かもしれない。
音楽 かもしれない。
推し かもしれない。


のめり込む度合いも違ってくるんだろう。

ただ、あんな表情さえ、させないでくれたら、
あの子がいい表情でいてくれるなら、あの子らしく生きていけるなら、それでいい。

危ない道に友人が友人を迷子にさせないものであれば、闇に光をさしてくれるなら、何だっていいと思うんです。
辛いときに差し伸ばされた手は何よりも優しく温かく有難く、思うんです。


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