モバマス・ロワイアル150話『人は人、私は私』/151話『ヘミソフィア』感想

モバロワの感想を書くのは久々で、Twitterの方のタグで調べたら去年の9月以来ですね。というのも、退場者なしのお話が50話以上続いて、そのことでどうしても読むのが遅くなってしまった部分があったのです。しかしこの期間、夕美らのユニット・フラワーズや泰葉の過去などのオリジナル要素をどう掘り下げるかという問題について各書き手の方々が苦闘しているのが垣間見えてとても興味深くもありました。
企画が始まったのは2012年、この頃はボイス付きのアイドルも数人しかいないという状態なわけで、アニロワIFの把握でアニデレを観たのが最初のアイマス体験だった自分の認識と当時の書き手の認識には相当なギャップがあると思います。

150話『人は人、私は私』。分かり合えたようで分かり合えない平行線を辿っていた日菜子と泰葉、残酷な結末が訪れてしまった。爆弾による死は桃華と珠美を彷彿とさせるけど、こちらは一度は命を救い救われ、最高の関係を築ける可能性だってあったのに、最後まで分かり合う事ができなかったのがより残酷に感じます。ここでも、バトルロワイアル特有の「時間のなさ」というのが響いたのかなあ。同じ作中、マーダー同士の杏と千夏が単純な利害関係で結びついたというのが余計に皮肉に思えます。

続く151話『ヘミソフィア』、ずっと退場者なしが続いたところから一気に2話で5人が退場したわけですが、このお話はすごかった。ゆかり退場話から溜まってきたものが一気に放たれたような回でした。
響子がずっと再開、そして殺害を望んでいたナターリアだけど、再開の時がそのまま別れの時となった。このロワの響子は狂気と正気の境界線上をずっと歩き続けていたように思うけど、一線を越えないための最後のキーになっていたのがナターリアの存在だったのかもしれない。「ナターリアと3人でお嫁さんになる」という約束は初期のシンデレラガールズ劇場が元ネタなんですね。わずか5コマの劇場からこんなドラマが生まれるのだから、やっぱり二次創作、パロロワというのは面白いです。
傷付いた響子の前に智絵里が立つ。響子と智絵里は同じ属性で似た部分もあるけど、家庭の問題だったり智絵里の方が年上だったりと対照的な部分もあるんですね。ここまで別々の書き手さんによる響子と智絵里のペア話が4回続いて、この終着点にたどり着いたのは感慨深い物がありました。
そして一度は倒れた光が立ち上がる流れは本当に見事。ナターリアも彼女も、「罪を負った人間がアイドルでいられるのか?」という命題に一つの答えを出して逝ったと思います。菜々の意思を継いで、本物の「ヒーロー/アイドル」として果て、しかし光の言葉は留美の心の根本を変えるには至らなかった。
彼女たちはアイドルだけど、あくまで一般人であって戦う力は持っていないわけで、戦うなら言葉を武器に変えるしかない。言葉の力で敵を説得、けれどそれが簡単に成功しすぎたら物語は嘘になってしまう。そういうバランスの上に成り立ってる企画だなあとしみじみ思いました。
短い中にモバマスロワの真髄が詰まった、企画主の◆yX/さんの渾身の一作でした。

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