旅に生きる20190116〜生き残る廃橋〜
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みなさんは橋好きですか?
詳しい構造とかそういうのは好きな人のサイトとかWiki見ればいいんじゃないと思います。自分はそういうのよりも
「なぜそこを渡らなければならなかったのか」
という人の気持ちを知りたいのです。
みなさんは意識したことありますか?
その通勤に使っている電車、なぜその『路線』は必要だったんでしょう?
まさか最初から人をすし詰めにするために鉄路を引く訳ではありません。
鉄路ができて人口が増えたからラッシュになるのであって(もちろん戦後や近年の新路線は人口が増加した地域へのインフラ整備で敷設した路線もありますが)
「重いモノをより遠く、より速く、より大量に」というものが原則です。
『引重致遠(いんじゅうちえん)』
宮崎県矢岳第一トンネルに掲げられている後藤新平の扁額です。
読んで字のごとくですね。
ではでは、以前取り上げた西会津、ここは水運の難所で陸路に繋ごうとすると脆弱な土地で道は険しく、泥濘んで苦労したって話だけいたしました。
それに対して住民はどうしたのか?
雪景色。強くはありませんでしたが軽い吹雪の中、水面に浮かぶはなんぞや?
ここは地名としては『上野尻』、今は上野尻ダムがあり、その堰堤の上が県道338号線になっております。
冬は誰もいませんが、春は桜の名所でとても綺麗です。また磐越西線がすぐ横を通るので撮影に来る人も見かけます。
上野尻駅は駅広場が広く、かつてはJAが入っていたそうですが自分が住んでいた時にはすでに無人。さらに商店があったりしますがそれが逆に過疎を感じる原因でもあります。
1日乗車人数はそれでも平均16人いるんだからまだマシっちゃマシなのかもですが。
で、なぜこの上野尻には駅があるのか?
これです。
人の移動の他に貨物の取り扱いが過去はあったわけです。
例えば農産物も駅から市場等へ発送していたわけです。
豊洲へと移転しましたが築地市場も昔は引き込み線があって貨物から魚を降ろしていたんです。
つまり上野尻も『何か』動きがあった場所なはずです。
で、その鉄道から今回の物件に行くわけですが、入口はこちらになります。
で、一応立ち入り禁止とかそういう措置は取られておりませんがどうやって行くとかそういうのは書かないことにします。
踏み入る可能性もありますので。死にはせんだろうけど「落ちます」よ、と注意しておきます。
某有名廃道サイトの管理人さんは入ってますけど真似しちゃダメです。
「自己責任!」って言ったって人に迷惑かかるんでやめましょう。
とりあえず入る前に横からのお姿をご覧ください。おわかりでしょうか?
途中で落橋しております。タイトルにもあるとおり『廃橋』でございます。『福島百選』にも選ばれている物件ですので事件だけは起こさないでください(´_ゝ`)
ただここを探索する人はなぜか渡りがち。気を付けてね~
はいどーん!
下がありません・・・・。さきほどの林を抜けてすぐこれです。
鉄骨渡りするんですか?カイジの読みすぎじゃないですか?大丈夫?(;´Д`)
ざわ・・・ざわ・・・しますよ?帝愛グループに金借りちゃったんですか?
それならまだ地下のほうが・・・・(;´Д`)
ひょー(;゚Д゚)久しぶりのたまひゅん。
さてこういう橋を『トラス橋』と言います。桁にトラス構造を用いていて・・・じゃあトラスってなんだよ、もうググれ!ググれ!(;´Д`)
まあ鉄骨をねたくさん使いますですよ。ところがここがおかしな話です。
この橋は昭和13年に竣工されてます。戦前のものなので、現地に残っているコンクリートの橋脚(今回は雪のため行ってません)なども頑強で今なお健在です。
なぜここに作ったのか?というと最初にちょろっと説明した阿賀川の水運はお隣新潟の津川までだったのです。急流とはいえ広い川幅で船も大きな船体のモノを大量に動かすことができます。しかしその津川からは川の流れが一段ど厳しくなり『銚子の口』という強烈な難所もあり、せっかく効率の良い水運から陸路へ切り替えることを余儀なくされるのです。
でもこの西会津は本当に土地として悪い。道が作りにくい地形。
で、滝坂(日本最大の地すべり地帯)と下野尻を繋ぐ橋が流されまともに使用できないまま廃されております(船橋だったのですが流された)
とても危険な山間を歩き、川を渡し舟で渡りやっと『野沢』へとたどり着く。野沢は今も昔も西会津の中心。
ここに炭(1度に3~4俵×5くらいしか運べません)、桐(会津と言えば桐タンス)を集積させてさらに会津へと水運へ切り替え繋いだわけです。
会津へ行くのにはやはり切り立った崖の間を流れ危険ではあるのですが、それでも下流よりはマシ。
道路も束松峠、七折峠を超えねばならぬものの街道としては十分なものになったので陸路も野沢が重要地点でした。
いかにして水運や西会津の各地域からの物資を集中させ移動させるかで阿賀川を超えるために橋を掛けたい!と願うのは当然。しかし何度もトライするも流されてしまい、橋を架けようとした地元の有志の資金も尽きて結局渡し舟がそのまま使われることになります。
つまり物流の流れがここに集まることになります。渡河するために。
しかしこの渡し舟ですら死人が出る始末。
本当にこのあたりは過酷だったんです。
「どうやったらモノを安全に大量に運べるか」を考えます。
そして明治になって馬車が通れる道幅になり、いよいよ多くの犠牲を払ってきた阿賀川へ橋を渡すことになるのです。
それがこの橋。
今やっと名前を出しますが『柴崎橋』と命名されております。
昭和11年に工事が開始され、川幅のわりに2年もの期間を費やしたことになります。
で、この橋は戦争を戦時供出にも出されることなく潜り抜けます。それだけ必要だったということです。・・・・が昭和33年、上野尻ダムが建設されその堰堤を道路にすることに決定、なんと20年で終了します。
ここでですよ?普通ならこれだけの鉄骨の量です。
廃止された橋なら解体してしまうはずですが、なんと予算がない!(昭和33年代に3桁県道の管理が県と自治体どっちが請け負っていたのかがわかりません。さらに言えば東北電力の事業に乗せてもらった道路建設で河川上のことなので、ひょっとしたら国土省の河川事務所も噛むのかもしれませんが一体どこの予算不足なのかがはっきりしない。たぶん町史を読めば書いてあるかも)
なんと路床をはがし、わざと落橋させてそのままにしたのですね。
そこから70年以上この廃橋はこの姿を晒し続けているのです。
この橋には多くの犠牲が伴っています。
まず橋が架かる前に失われた命。
橋を架けるために奔走した人々の財産。
物資を運ぶために大変な労力を使った当時の人々の過酷で貧相な生活。
さらに言うと、流されてダメになった船橋も
宿場が「橋で宿場を利用しなくなるから補償をしろ」と反対し結局、渡し船になったこともあります。
もちろん宿場の人の言い分は無理な話ではないんです。
便利になると『通過点』になって寂れるのはいつの世も同じこと。だからといって命がけの不便を押し付けるのもまた難しい話。
結局、ここは渡し船があって宿場町だったから鉄路が敷かれた時も駅が出来た。
きっとここまで運ばれた物資が新潟や会津へと向かったのかもしれません。
もちろん中心地の野沢には負けるでしょうけど。
そうやって念願の橋は頑強な堰堤が道路になることにより儚い運命をたどり、さらに終わった後の姿、人間でいえば死体のような廃された状態をずっと晒しているわけです。
過酷な物流、そしてこの地一帯の軟弱な地盤、厳しい地形による難所。
もちろん街道としてとても栄えたんですよ。
それでも今のように酷道49号線ができるまではそれなりに犠牲を払う必要のあるルートだったわけです。
その阿賀川は今でも船で新潟へと渡ることはできません。
技術的には可能なのでしょうが、物理的に無理なのです。
ダムがこの上野尻はじめ何か所もあるからです。
物流が陸にシフトしたから水運としての役割は終えたのです。
船で川下りは新潟県に行けばできますが。
さて最後、唐突にストリートビューを。
「人んちの駐車場」を見せられても困ると思うのですが、
この地を訪れ、「では帰りますか」と道を進んだら
こんなことになっていました。
木があってただの森だと思っていた場所に神社があったのです。
さっきのストリートビューのちょうど車が止まっている位置にこの鳥居があります。
ちなみにこの道は住んでいる時にも2回通ったどうか?くらい使わなかった道路なのでまったくわかりませんでした。
なので何を祀っているのかとかそういうのもまったく不明です。
シンプル。しかし伐採された木はなかなかの大きさだったことが周りの切り株からわかります。
それと社の周りは崖まではいきませんが大きく窪んでいる場所なので近づけるルートは1つ、そして社をちょうどいいサイズで撮影できるスペースもありません。
古いのか新しいのかさっぱりわからん。
そして雪に覆われていて
「え?近づけるのかな?」と不安になりましたが、導いてくれたのはこの足跡です。
人の足跡は一切ありませんでした。積雪があってから誰も踏み入れていない可能性があります。
それでもきっと狸だと思うのですが、この社、そしてこの社の周りにてんてんと足跡が付いていて無事歩けるルートを確保できたのです。
ひょっとしたら住んでるのか?と床下をのぞいてみましたがおらず。
柴崎橋のそばでひっそりとしておりました。
ちなみにこの神社のある道路は最後は無理やり新道へ左折で繋げられており実質行き止まりになっています。
その新道は元々曲がりくねった峠道にどかんとバイパスを通したものです。
これにより奥川地域という西会津でも最高に山奥の地域から中心部へのアプローチが多少楽になっています(多少ですよ)
使われなくなったのに保存目的でもなく、残される橋、新しく作られる橋。
それにより廃止されわだちも足跡もないかつての峠道。
自分が何度も通った道が廃され、その道が廃橋へのアプローチの道で、
歴史を歩くとは、何も大きく構えて文献を引っ張り出し、やたらと歴史観をひけらかさずとも、
『なぜここにつくったのか』という社会基盤を築いた人間の心理が読み取れれば立派な探求と言えると思います。
『旅に生きる』って大げさなと思います。だって実際にずっと旅しているわけじゃないし(すみません通院がなければやってると思います)
でも目的や自分探しで旅してるわけでもないですからね。
むしろ『目的や疑問が見つかったから答え合わせ』するために現地確認してるのがわたしの旅なのであって。
海外に行く暇なんかないでしょう?
飛行機で海を渡る暇があるなら日本のまだまだ知らないあの町この町たくさん巡らないと。
それでも回り切れないくらい『人の心』が作り上げたインフラが残っているのだから。
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