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【世界最速レビュー】タワマン文学者・窓際三等兵/外山薫のデビュー作「息が詰まるようなこの場所で」を読みました♪

 窓際三等兵が本を出すと聞いたのは、去年の4月のはじめの頃だった。

 その日の夜は弱い雨が降っていて、でも予約していた麻布十番の小山橋あたりの小料理屋(今は再開発で移転してしまったらしい)は当時の家から近かったから、僕は油断して傘もささずに肩をすぼめながら歩いてゆき、お店に着く頃には軽度の濡れねずみになっていた。入ってすぐのカウンター席に座ってスマホをいじっていた猫背の男が、初めて会う窓際三等兵だった。
「僕、角川から本出すんだよね」
 窓際がそう誇らしげに言うので、短編集ですか?と聞いた。というのも、僕もその数週間前に集英社から「タワマン文学」の短編集のオファーを貰って、ちょうど二日前には担当の稲葉くんと荒木町の蕎麦割烹で顔合わせの打ち合わせをやっていた。
「いや、書き下ろしの長編」
 勝った、とそのとき僕は下品にも思った。なんと名義も変えるのだと聞いて余計そう思った。さてはこいつ、出版社から「窓際センセ、これまでバスったタワマン文学を集めてですね、その、出版不況ですからね、あの、手堅〜〜〜〜〜く売れる本を…」と揉み手で言われて、偉くなったような気になって、それで椅子にふんぞり返って「いや、出すなら書き下ろしの長編がいいッす… それ以外なら、悪いけど他行きますわ… 他になんぼでも、アテはありますんでねぇ…(暗黒微笑)」だなんて言ったんだろうと、その日の角川の応接室の最悪の空気を想像した。そして窓際と別れて自宅に向かって歩いている間、僕は終始ニヤニヤしていた。まだ雨が降っていた。うなじに落ちて弾ける冷たい雨は心地よくすら感じた。

 そこから僕も自分の本のことで手一杯になって、気付けば9月の発売の日を迎えて、そのあとも取材やらイベントやらで平日も週末も予定がパンパンになって、窓際の本のことは忘れていた。窓際とは定期的に飲みに行ったりしていたから「毎晩1,000字ずつ書き進めてる」とか、そういう本の進捗は聞いていたが、中身について聞くことはしなかった。「初めて読んだときの感動を後にとっておきたいじゃないですか」表面上はそんなことを言いながらも、僕はそれを聞く必要がそもそもないと思っていた。僕は彼をタワマン文学者としては尊敬していたが、タワマン文学を捨てて、ペンネームも変えて、僕が打ち込んで本にまでしたそれを否定して、代わりに昔からの夢だか知らないが「作家先生」になろうとする彼のその挑戦は、どうせ聞く価値もない退屈なものに決まっていると思った。さしずめ、タワマン文学のエッセンスを「逃げ」として下品に散りばめつつも、しかし中身はアラフォー子育て世代のしょうもない憂鬱としょっぱいカタルシスを描いた、ありきたりなエンタメ小説でも書くんだろうと踏んでいた。

 それで11月になって、窓際からゲラが届いた。僕はその頃にはゲラ(原稿を印刷用のレイアウトに組んだもの)なんて言葉を当たり前のように使うようになっていた。もはや窓際とは格の違う「作家先生」になったつもりでいた。
「月末に対談やるので、それまでに読んでおいてください」と、稲葉くんに言われていたから、いつだったか松(近所のバー)でひとりで飲んでいたとき、退屈潰しのつもりでそのゲラのPDFデータを僕は開いてみた。

 結果、そのまま一気読みしてしまった。

 結論から言うと、それは紛れもない「タワマン文学」だった。

「俺は少しだけ、彼の気持ちがわかる気もしますけどね」
 ビールのグラスを飲み干した健太がつぶやく。
「頑張って東京に出てきて、毎日嫌な思いしながら働いて、35年ローンで家を買っても、東京って上には上がいるじゃないですか。それも無限に。仕事でも先が見える中、自分が何者でもないという現実をつきつけられて、それでも惨めな自分を認めたくなくて、自分のアイデンティティをマンションや街に投影して承認欲求を満たす人の気持ち、わからなくもないですね。少しだけ」

「息が詰まるようなこの場所で」(KADOKAWA)

 まず舞台がタワマンだ。東京湾岸部(なぜか明示されていないが豊洲あたりだろう)のタワーマンションに住む人々の物語は、いくつかの遠景を持ちながらも、主に「平田家」「高杉家」というふたつの家族を中心として展開してゆく。展開、と明るく書いたが、それは胸が躍る潮風のような、明るく前進してゆく物語では決してない。むしろプロローグにおいて描かれる季節外れの長雨のような、じっとりと湿った後悔、不安、嫉妬、諦念、虚無、コンプレックス―― そういった、心にそれを抱えていることすらも人に言いたくないような感情にまみれた人たちが、職場、PTA、実家、学習塾、そのほかそれはもう様々な「息の詰まるような場所」で、古い世代から新しい世代へと再生産され引き継がれた、引き継がれてしまった、あるいは今にも引き継がれようとする、致死性のものではないが確かにそこにある「息苦しさ」と向き合い、足を取られ、転んでもそれでも立ち上がり、もはや前に進もうとしても足は動かない、進んだところで今よりいい場所に辿り着けるか分からない、そんな苦痛や不安の中でも、それでも前に進もうとする。そして遂には、些細な日常における些細な一歩ではあるけれど、その一歩を確かに踏み出す。あくまでも「些細な日常」の話で、しかしそれが積み重なってできる人生の話だ。暗い、しかし究極的には明るい話だ。これが文学じゃなかったら何が文学なんだ。

 と、そんなご立派なことを書いたが、そんなご立派なことの舞台は所詮はインターネットのみんなのおもちゃこと湾岸のタワマンであり、それを書くのはあの窓際三等兵である。「スタンフ夫」が出てきた時は血圧がおかしくなった。
 エピローグでやや駆け足気味に語られる平田家の長男・充の回想の中に、ドキリとするような一節が突如として出てくる。

本気を出すのが格好悪いと思うようになったのはいつ頃からだろう。

「息が詰まるようなこの場所で」(KADOKAWA)

 僕はツイッターで個人攻撃と時事ネタはやらないと決めている。そこには特定して言及される、批判的に言及される個人がいるからだ。でも窓際三等兵は割と気軽にそれをやって、それでたまに炎上する。その中で、彼はいかにも「タワマン文学的」な人を面白おかしく取り上げることがある。何かを笑うと、今度は自分がそれをできなくなる。その繰り返しの末に、人は何もできなくなってしまうのに。

普段、タワマン住民が階数や子供の偏差値にこだわっている様子を悪趣味に描いて笑っている人間が、実は小説家として評価されたくて必死に足掻(あが)いているという、この二重構造そのものが文学的だと思うんですよね。リアルタイムの文学リアリティーショーとして楽しんでもらえればと。

なぜ人は「タワマン」「SAPIX」「年収1000万」をこよなく嫌うのか…タワマン文学作家・窓際三等兵(外山薫)(みんかぶマガジン)

 おそらく、窓際三等兵はそのことを明確に自覚している。それでも、彼は本を書いた。「学生時代、作家になりたかったんですよ」なんていう、タワマン文学に出てくる早稲田文構卒で何歳になってもゴールデン街のインチキ文壇バーで直木賞受賞作に文句を言っている人物のような、そんな青臭い動機を晒してまで本を書いた。「勝ち筋」を捨ててまで書き下ろしの長編を選んだ。外山薫、という彼の新たな名前と、そっちのアカウントにおいて綴られるあまりに退屈で、しかし柔らかく温かい言葉たちは、もしかすると彼が本当に吐き出したかったもののようにも見える。
 これは、ある意味で窓際三等兵の、いや僕がその本当の名前を知らないとある猫背の男の、死と再生の物語でもあるのかもしれない。まぁ、あの中年のツイッター運用は今後も変わらないだろうけど。(追記… 1/26時点でそう書いていたら過去ツイ全消ししてて笑った)

 いい本なので買って読んでください。でも僕の本のほうがちょっとだけ多く売れるといいなァ。


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