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MOROHA論 / おじさん3人で単独武道館ライブに行った話

長らく「麻布警察署」という物騒な名前でTwitterをやっていたせいか、各種タレコミが今でもDMで届く。
よくあるのが「お前のフォロワー(特に男)から粗雑な扱い(特に性的な)を受けた」というまさしく通報で、LINEスクショ等の確たる証拠を含むそれらを日々興味深く読ませていただいている。

「既婚者と寝てしまった」というやつが結構多い。気になってその手口をヒヤリングしたところ、かなりの事案で共通的な手口が見られた。
「嫁とレスなんだよね」
「離婚に向けて話し合ってるんだよね」
何にせよ、いま自分は夫婦関係において不幸を感じている、という主張を多くの男がしていた。そして、恐るべきことに、それがかなり効くらしく、自らの被害者性を滔々と説く彼女らは、結局は彼と自らの意思で寝てしまっているのだ。

不幸というのはすごい力を持っている。
当アカウントの「文学」の引力の本質も結局はそれだと思っている。誰かの地獄を覗き込むことの愉悦。本来なら見ることのできないその地獄が自分だけには開示されたことの愉悦。その地獄の苦しみを一時でも負担し軽減してあげられることの愉悦。
人の不幸というのは、相手に一定の幸福を与えることができる。プラスとマイナスとゼロ。世の中というのはよくできているなと思う。

不幸には価値がある。
自分は不幸だ。恵まれていない。苦しんでいる。現に汗や涙を流している。そうしているだけで応援してもらえたり、心配してもらえたり、配慮してもらえたりする。不幸から抜けるために努力するのと、そのまま不幸でいるのでは、もしかするとトータルでコスパがいいのは後者かもしれない。だからこそ、社会には必ず飲み会で自分の不幸の話をする人たちがいる。あなたの周りにもいるだろう。

ところで、MOROHAという2人組がある。
私は彼らを「何であるか」を端的に説明する言葉を持たない。ラッパー?ヒップホップグループ?とにかく、ワンアコースティックギターとワンマイクロフォンで音楽を奏でる人たちがいる。

元はと言えば、飲み友達のてるまくんから教えてもらった。
彼と中目黒で飲んだ日に教えてもらって、帰りの都バスで聴いて、袖がビチャビチャになるほど泣いた。
その日の飲み会で、武道館単独ライブがあるから行きましょう!という話が出ていたから、私も一緒に行かせてもらうことにした。

MOROHAが歌うのは、一貫して彼らの音楽活動のリアルについてであり、それは実質的に彼らの音楽活動のリアルな苦しみについてだ。
どれだけ歌詞を書いても、ライブに出ても、悩んでも、泣いても、彼らの音楽がすぐに認められることはなかった。友達からチケット代を取る。それで米を食う。彼らを支える周囲の優しさすらも刺さって痛い。惨めで情けない。そんな日々が2010年代からずっと続く。それが歌詞になる。それを歌う。ラップとも呼べないような、声を裏返しながら絶叫するように、彼らはその歌詞をギターに乗せて歌にする。

MOROHAを聴くのは、すごく疲れる。武道館のMCでも「歌う自分より聴いてるお客さんが疲れる音楽がやりたい」と言っていた。
前述の通り、不幸というのはおそろしい価値を持っている。音楽活動なんて楽であるはずがないし、その苦しみはヒップホップにおいてはあまりに定番の題材で、誰しもが空っぽのライブハウスに歌う下積み時代の苦しみを歌ってきた。KOHHもファーストの「飛行機」でそんな話をしてた気がする。ヒップホップとはマイクロフォン一本でゲットーから這い上がる物語の共有であり、それとこの手の話はすごく相性がいい。
そして、MOROHAのそれは、とびっきりリアルで、だからこそ重い。
「n文銭シリーズ」と呼んでいる6つの一連の曲がある。「一文銭」から「六文銭」まである。おそらく彼らの地元のヒーローである真田家から取っているのだろう。由緒ある由来とは対照的に、おそろしく悲惨な曲ばかりだ。
僕は「三文銭」が好きだ。なぜなら、リアリティが飛び抜けているから。

六畳一間広がる歯ブラシ
炊飯器三日目の黄色い飯は不味い
貯金ゼロその日暮し それでも網戸の向こう夕日は眩しい
水道は割と止まらない 電気は止まるが元気があれば
哲学よりも節約の日々ですが
授かった命ぐらいは贅沢に使いたい

MOROHA「三文銭」より


MOROHAの周りにはいつだって日常の匂いがするリアルな苦しみがあり、彼らはそれらを濾過することなくリリックにする。もちろん僕は音楽活動なんてしていない。日々どうにかお金に困らないくらいの暮らしをしていて、寝食の不安なんて感じたことはない。それでも彼らの苦しみが胸に迫るのは、彼らの苦しみの包み隠さないリアルの鋭さゆえだと思う。
武道館はおじさん3人で行って、3人並んで聴いて、3人ともボロボロ泣いた。みんな歳も違うし、仕事も違う。ある苦しみが、それを体験すらしていない異なる3人のおじさんに刺さるなんて本来おかしな話で、でもそんなおかしな話をリアルにするのが、彼らの刃の鋭さなのだと思う。

最低な比較の話をする。MOROHAが歌う苦しみと、Twitterのオフパコ既婚者との違いは何だろう?とお風呂に入りながら考えて、それは結局のところ「戦い続けること」だと思う。

彼らの言う通り現実、特に彼らの生きる現実である「表現」の道は辛く苦しい。

「自身の音楽人生において、2つの壁があると感じました。1つは私よりも才能に恵まれたミュージシャンがたくさんいる、ということを実感したこと。もう1つは、日本における従来の音楽業界システムは状況悪化の一途を辿っていたことです。テクノロジーやインターネットの影響で脆弱になっていたのです」

セプテーニホールディングス代表取締役 佐藤光紀氏インタビューより

ライブは例のてるまくんと、それから佐藤さんと行った。元々バンドをやっていた彼は「バンド以外のことをやらないとバンドのことを諦められないと思ったから」というあまりにかっこいい理由で会社を設立し、結果として大きな成功を収めた。裏を返せば、それくらいしないと忘れられないほどに打ち込んでも、それでも成功できないほどに、音楽というのは厳しいんだと思い知らされる。
その苦しみの中を、MOROHAは窒息しそうになりながら、そしてその苦しみを歌にしながら、自ら吐いたそれを酸素として吸い込みながら、今でも歌い続けて、そして遂に、彼らは武道館というステージに辿り着いたのだ。

イベント当日 ドタキャンは辛い
「行けたら行く」とはぐらかされて辛い
腹立てる俺ですが 友達を客と見てる自分が一番罪深い
分かってんだ 爆音のフロアでガツガツ踊れる人ばかりじゃないし
夜が寝れなきゃ昼は辛い 自己満足と背中合わせの音楽活動
考えたって出ない結論も 後にようやく出た結論は
1,500ワンドリに届くライブをする それがアーティスト 当たり前のこと

MOROHA「イケタライクヲコエテイク」より

2時間で6,500円を取る武道館の7,500席を全て埋めたアーティストの一曲目とは思えない、重たい自省からその日のライブは始まった。
アーティストの苦しみというか、エゴが詰まっている気がした。見出されない才能が生き延びるための方法は、結局は自分たちが生き延びるためのお金を払ってくれるほどに身近な人たちからお金を貰うことであり、それはつまり、友達をお金に換えて、場合によってはもう二度と会えなくする禁断の錬金術でもある。アーティストの背負う原罪を、彼らは7,500人に滔々と告白した。

MOROHAとは、結局こういうことなのだと思う。
彼らはカッコよくない。長野の田舎で結成して、東京に出てきて、アイドル的な華はなく、流行りのスタイルでもなく、砂糖菓子のような愛や希望を歌うわけでもなく、代わりにいつだって苦しみを歌った。友達をお金に換え、そのお金でどうにか米を食い、大事な人を失望させ、悩み、汗を流し、泣き、それでも売れない音楽をずっと続けてきた。彼らが自分について来てくれた人のことを歌うのは、ついて来てくれなかった人が多かったからでないかとすら思う。彼ら以上に彼らのことを信じてくれた人がいて、二人はそういう人に対して報いることができず、ずっと苦しんで、それでも歌って、弾いて、ここまで辿り着いたのだ。

そこには再現性なんてない。彼らの狂気が岸を引き寄せた。
僕らの誰もが、彼らのような苦しみを経験していない。
それでも僕らは、彼らとは違うものだとは思うけど、また別のしょうもないことで苦しんでいる。
人生とは苦しみの連続であり、たまに救われたり、でも大体救われなかったりする。
人生とは苦しみであり、降り注ぐ小石のようなそれに耐え、どうにか歩き続ける行程の連続のことを言うのかもしれない。

この国で五本指に入るラッパーじゃなくていい
MOROHA アフロは あなたの握った拳の中だ
戦う気持ちの側にいるから

MOROHA「六文銭」より

だからこそ、僕らの人生にはMOROHAが必要だ。
誰ひとりあなたと同じ苦しみを経験していないように、あなたはMOROHAの苦しみが分からないし、MOROHAもあなたの苦しみが分からない。
それでも、僕たちが努力をしようが、諦めようが、その間MOROHAは前に進んでいる。
僕たちは彼らを見て、勝手に勇気を貰って、彼らの何歩も後を歩けばいい。
多分彼らは、僕らに振り返ってはくれない。そんなファンサを彼らはしない。でも、それ以上のことを、彼らの生き様を、彼らの音楽を通じて、僕たちに与えてくれるのだ。

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