ディスるということ/または愛するということ/またはキラキラ女子からツイッター爆美女への変遷の歴史について
これは何度も何度も繰り返しているが「ツイッターの自称爆美女」が嫌いだ。
「ツイッターの自称爆美女」とはもちろん先行して存在する概念ではないし、定義できるほど明確な存在でもないから、マァこんな感じというのを示しておく。
いかがですか?該当するアカウントが2,3思い浮かびませんか?
この手のアカウントは、ツイッターの一般普及が始まった頃から既に存在していた。いわゆる「キラキラ女子アカウント」がそのイデアであると私は見ていて、その詳細はトイアンナ氏のブログに詳しい。「ばびろんまつこ」と聞くと思い出す人もいるだろう。
当時のキラキラ女子はまさしく「時代の擬人化」であった。
リーマンショックと東日本大震災以降の実感なき景気回復の中で実感を得ていた人たちが西麻布に集まり、彼らが開けたボトルからこぼれ出るシャンパンに若い女性たちが群がる。会員制のバーの電子錠のドアの向こうで繰り広げられる狂乱の虚実を、それまた虚実入り混じった文体でこっそりとツイートしていた、綺麗なドレスを着た綺麗な女性たち。そんな彼女らを私は想像するし、それすらも虚像かもしれない。
景気回復がさらに進む中、その電子錠が取りさらわれ、西麻布は広く開放された。そこらの女子大生が、ちょっと金を持っているサラリーマンとクラブで出会い、マンシーズでエッチな合コンに参加したりした。憧れが地上スレスレのところまで降りてきたのである。
その憧れに実際に飛びつく人もいたし、もはや誰の目にも視認できるその姿を、体験せずともツイッターであたかも体験したようにツイートした人もいるだろう。コピーのコピー、あるいはコピーのコピーのコピー。ミューズの床で踏み締められベタベタになったシミュラークル。それこそが「ツイッターの自称爆美女」の正体ではないかと思っている。
そんな出自があるからこそ、彼女らのツイートには一定の「癖」がある。
例えば、彼女らは絶対に自撮りを上げない。若者のインスタ普及率が90%近くまで上がった昨今において、自撮りとそれをインターネットに公開することの精神的ハードルは恐ろしく下がった。フリート機能のあった頃が顕著だったが、若い女の子は(すぐ消すことが多いけど)平気で自撮りをツイッターに上げる。
しかしツイッターの自称爆美女は絶対にそれをしない。せいぜいグラスを持った手とか、美容院で切ったばかりの髪だとか、そんなトルソーみたいな断片的情報しかインターネットに晒さない。
また、彼女らのトレンドに対する理解は化石のように硬直的だ。「大豆田とわ子」の舞台がもはや港区ではなく渋谷区であるように、あの「東京カレンダー」すらも渋谷特集を刊行するように、もはやトレンドに敏感な若者たちの間で港区は「オワコン」になりつつある。しかしそれでも、彼女らは銀座や恵比寿に執着する。彼女らはもう何年もかけて何千人もの垢のついた麻布十番のデート向きで雰囲気のいいカウンターのあるお店を、あたかも「初めて見るでしょう」と言わんばかりのしたり顔で、それも拾い画でツイートで紹介する。
単にトレンドを追えていないのか、あるいは何かしらの理由でセンスのよい男性とのセンスのよいデートから遠のいているのか、何にせよ彼女らの価値観は「東京女子図鑑」が話題になった2017年あたりから更新されていない。実は爆美女なんかじゃなくてデートに誘われないのか?お金をかけるほどの存在ではないと思われているのか?真相は藪の中である。
さて、本論の主要テーマは「ツイッターの自称爆美女」の生態の紹介でないから、これ以上は踏み込まない。
ではなぜここまでツイッターの自称爆美女について語ったかというと、私が自らの嫌う存在に対して、どれだけ深く調査し洞察しているかを示したかったからであり、それこそが本論の主要テーマの本質である。
私は彼女らの「努力せず何かをバルクでディスる」という傾向をとことん嫌っている。
私が5分レクチャーすれば、あなたも今すぐツイッターの自称爆美女アカウントを運用し、1,000フォロワーくらいは軽く獲得できるだろう。それほどに彼女らの言動はあまりにテンプレ的である。
そのレクチャーにおける最も重要なアドバイスは「特定の属性をディスること」。ハイスペだがお店選びのセンスがなく、しかしすぐ告白してくる東大卒外銀くん🥺ハイスペ自慢している割にマーチ卒だしJTCで年収1,000万もないくせに生意気にも持ち帰り打診してきたので断ったら5,000円請求してきたペアーズの男🥺カフェの隣の席で私よりブスな女に必死に非モテコミットしてるブサイクな男🥺絶え間ないABテストの末に、勝てる方法は既に決まっている。
そして、その点こそが私が彼女らを嫌う最も重要な理由である。
彼女らは、ディスる対象に対する十分な理解も持たず、またそれを得るために努力するつもりもない。
ただ、先行者のマネをして、何となくフォロワーを増やして、弱小マッチングアプリやデリケートゾーンの消臭ソープのPRで小銭を稼ぎたいだけ。そこには、ディスる相手に対する愛がないのだ。
先日、5ちゃんで当アカウントが随分叩かれた。毎朝起きるたび、私に対する書き込みを音読していた。
不思議なことに、そのほとんどは刺さらなかった。「麻布競馬場は寒い」「つまんなすぎw」みたいな言葉は、私に対する理解がなくても投げつけられるからだ。
逆に、刺さる投稿って何だろう?と考えた結果、「ワイン詳しいアピしてるくせにシャンパンも赤ワインもリーデルの白ワイン用グラスで飲んでる」「HIPHOP詳しいアピしてるくせに舐達麻しか聴いてない」みたいな、私と私の語るものについて十分に調べ、小さくも尖った石を的確に投げてくるような投稿だった。
ツイッターの自称爆美女のディスりに話を戻す。
彼女らは、既に決まっている「石を投げていい相手」に、既に決まったかたちの石を、既に決まった方法で投げているだけである。
実は、石を投げんとする大きな袋の中に自分が好きなものが混ざっているかもしれない。誰かがひどく愛しているものが混ざっているかもしれない。そんな思慮も配慮もなく、壊れた機械のようにただ石を投げ続ける。ヘイトこそがインターネットの最も安価で効果的な燃料だから。
ディスることは、愛することと裏返しである。そうあるべきだとも思う。愛なきディスは精度を伴わず、愛なきディスは批判ではなく理屈のない暴力に他ならない。
本質的に、ディスとは攻撃である。正当な批評であっても、一寸たりとも嫌な気持ちにならない人なんていない。
だからこそ、ディスるにあたっては、礼儀としてよく調べ、考え、その上でディスを遂行する必要がある。それをしなければ、駅で何の理屈もなくぶつかってくる中年男性と何ら変わらなくなってしまう。
そして、場合によっては、その過程の中で対象のことが好きになることもある。逆もあるだろう。何かを好きになり、そのことについて深く考える中で、やっぱり許容できないポイントがあるな、と思って別れるカップルは、極めて健康であると個人的には思う。
ご存知の通り、インターネットでの攻撃は人の命すら奪うことがある。そこまで行かなくとも、嫌な気持ちの蓄積というのは、人の心を着実に蝕んでゆく。大手アカウントの最も重要な素質の一つは、日々投げ掛けられる暴力みたいなリプに耐性があることだ。
前述の通り、私はツイッターの自称爆美女を徹底的に憎んでいる。だからこそ、インターネットの平原に彼女らがたった一人でも立っていなくなるまで、私は私なりに、十分な愛を込めて、彼女らに火を放ち続ける。
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