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ポケットモンスター 東京に救われた人/東京に来なかったほうが幸せだった人

小学校のときの郷土学習で、たしか「わが郷土」という壮大な名前の冊子が配られた。僕が生まれ育った街は、中国山地から流れる複数の川が運んだ土砂が海に堆積してできた平野に位置するらしかった。
まさしく平野と呼ぶにふさわしい平野だった。昭和の終わり頃に建ったらしい銀行の社宅の上のほうの階からは、僕の街には止まらない東海道新幹線と、その向こうの海が小さく見えた。背の低い街だった。最近タワマンが建ったらしいが、それまではJRの駅前の、せいぜい十数階建ての何とかホテルが一番高かったんじゃないかと記憶している。

まさしく平野と呼ぶにふさわしい平野だった。どこまでも平等で、どこまでも背の低い街だった。地主の娘とか、市長の息子とか、ベンツに乗ってる医者の息子兄弟とか、何だか一目置かれる子どもたちが小学校にいたが、それでも所詮はこの背の低い街の少しだけ背の高いどんぐりに過ぎなかったんだと思う。みんな公文に通い、山のほうのケーズデンキの近くのスイミングスクールに通い、休みの日は誰かの家で遊戯王カードをしていた。

おじいちゃんもお父さんも、旧制第一中学に通っていた。当然僕もそこに通っていた。担任の先生と生徒指導の先生はお父さんの同級生だったし、部活の先輩はお父さんの同級生(しかも勤務先の銀行の同僚)の息子だった。あの浩史の息子、と妙な特別扱いを受けていたような気もする。お父さんは生徒会長で、それでいてちょっとワルでもあったらしい。

家は積水ハウス、車は日産のミニバン。週末は車で中華か焼肉に行って、帰りに宮脇書店に寄って本を何冊か買ってもらう。日曜日の朝はサッカークラブ(中学でやめてしまったけど)。そんなふうに暮らしていた。みんなそんなふうに暮らしていた。

塾らしい塾にも行かず、高2から東進衛星予備校に通い始めて、結局指定校推薦で慶應の商学部に入った。僕もお父さんと一緒で生徒会長をやっていた。

大学は、実はちょっと身構えていたけど、何と言うか普通の人が多かった。クラスには内部生もいたけどみんな親切で、よくクラス会と称してひようらのとりのすけに飲みに行った。当時は年確も甘かった。
サークルは、地元の国立大学でテニサーの飲酒死亡事故があり、何となく怖くて大手は避けて、しかし飲みが穏やかそうな中小テニサーに入った。同期の内部生は志木高生しかいなかったし、あとはみんな地方出身者か、せいぜい浅野高校と厚木高校の人だったから、アットホームな雰囲気だった。

明るい昼間から電気もつけず、窓を全開にして入る初夏の晴れの日のお風呂みたいな、柔らかく融けゆく無意味な時間が流れていた。メディアコムを受けるクラ友を見て偉いなと思った。大学2年からインターンに行くサークル同期を見て偉いなと思った。濃いメンツが集まった宅飲みでニッカを一気して吐いて、潰れて寝て、ツイッターで「二日酔いなうwwwでもこのあと飲み会です←」とつぶやく。彼女もできず、曖昧に始めたドトールのバイトは何となく続き、あっという間に三田に移った。

ゼミは何となく統計学のゼミに入った。サークルの先輩が入ゼミ係をやっていたから。それだけの理由。同期にNY高出身の人がいた。半袖を着る前からサングラスをかけていた。DJをやっているらしい。ゼミの同期みんなで彼が回す日にクラブに行ってみることにした。

渋谷のクラブ。ラブホテル街のど真ん中。心臓をつらぬく聴いたこともない音楽の轟音。見たこともないようなヤンキーとギャル。隅でタバコなのか何なのか分からない甘い煙を吐いている人。帰りたい、と思った。友達を見つけたけど、何だかサングラスをかけた怖い人たちと大声で談笑して話しかけられなかった。誰も踊り方なんて知らなかった。彼が回すのを遠くで見て、出番が終わったタイミングでどうにか挨拶した。僕たちとの話をさっさと切り上げたそうな雰囲気。僕たちみたいなのと話しているのを、周りに見られたくなさそうな雰囲気。察してすぐに出た。終電はなかった。

サークルで新歓係をやっていた。慣れないパワポを頑張って操作して、それらしいポスターを作った。それが割と評判だった。事実、新入生の数も多かったらしい。変な自信が湧いた。確かに小学校の頃、ヤマハのお絵描き教室で描いた絵で賞を取った。そう言えば中学校の頃、読書感想文で県の大賞みたいなのも取った。もしかすると、そういうのに向いているのかもしれないと思った。

ちょうどNY高の彼が電通を志望しているらしかった。仲のいい先輩が電通にいるらしかった。よく自慢していた。OB訪問をさせてくれないか、とお願いしたら、いや忙しいだろうから、と断られた。翌週も彼はその電通の人と朝まで飲みに行ったと自慢していた。

何となく、第一志望は博報堂と定めた。何と言ってもクリエイティブの博報堂だ。佐藤可士和に大八木翼。その二人くらいしか知らなかったけど。赤坂で働く自分を想像した。

説明会でひどく感銘を受けた。知らないクリエイティブの人が出てきた。髪はボサボサ、パーカー、ナイキのスニーカー。そんな格好で新卒イベントに出てくるのなんて博報堂の、それもクリエイティブだけだと思った。学生時代は音楽をやっていたらしく、それが入社のきっかけになったと言っていた。最後に質問のある人、と言われて、手を勢いよくピーンと上げたら司会の人に笑われて、当ててもらえた。私はクリエイティブ活動の経験があまりないのですが、クリエイティブを通じて人を感動させたいです。未経験でもできますか?もちろん。別に今の仕事も全部が音楽が関係してるわけではないですし、センスがすべてというわけでもないですし、あと勉強とか、消費者、生活者でしたっけ、あとクライアントについて深く考えることのほうが大切だと思うので―

帰りの電車でもまだ胸がドキドキしていた。すぐに生協で「コミュニケーションデザイン」を買った。ゼミでも博報堂志望を公言した。絶対に行きたい。行く。NY高は、いいじゃん頑張ろうよ、と笑っていた。馬鹿にされているのはすぐに分かった。絶対に見返してやろうと思った。

面接では二人の社員が出てきた。一人が営業で、一人がクリエイティブ。どちらも太っていた。クリエイティブ志望なんだ!そしたら〜、僕ら二人を漢字で表現してください。「丸」と「肉」しか浮かばなかった。パニックになった。その様子を察した一人が、浮かばなかったら無理しなくていいよ(笑)と笑って、これまでどんな活動をしてきたの?と聞いてきた。ありません!と答えた。僕がたとえばDJをやっていたとして、入社後の仕事も音楽が関係するとは限らないですし、センスがすべてというわけでもないですし、あと勉強とか、消費者、生活者でしたっけ、あとクライアントについて深く考えることのほうが大切だと思うので― そうして、僕が普段どんなふうにマーケティングやコミュニケーションについて学び考えているか、僕のポテンシャルを必死で伝えようとした。

隣にはもうひとり学生がいた。君は?と聞かれて、彼は立教のサークルでフリーペーパーのライティングとデザインをやった話をスラスラと話した。現物も持ってきていた。日大豊山の同級生で、今キテるカメラマンを起用したりだとか、飲み友達から紹介してもらったミス青学のモデルを起用したりだとか、そういうブッキングとか、繋がり作り含めてクリエイターの仕事だと思っていて… という話が随分盛り上がった。僕は協調性がある学生に見えるよう、ニコニコウンウンと頷きながら彼と面接官の話を聞いていた。お父さんは藝大出身で、ああサンアドの●●さん、と面接官たちも知っている風だった。帰りたかった。急に渋谷のクラブのあの夜のことを思い出した。僕が入れてもらえることのなかったドアの向こうの、生まれた時に与えらえた特定のパスポートを持つ人しか入れない、あの会員制のクラブ。

翌日のゼミの最中、NY高のiPhoneが鳴った。博報堂の一次通過の連絡が来たらしい。よっしゃー滑り止めだけど(笑)と彼は教室に戻ってきた。スーツに不釣り合いなニット帽には、これまた不釣り合いなサングラスが掛けてあった。僕には連絡がなかった。

今は地元のテレビ局で働いている。代理店だけに絞っていたから就活の持ち駒がゼロになった。うちの人事がお父さんの知り合いだった。平日夕方のローカルニュースを担当している。昨日はレンコンの収穫の取材に行った。22時を過ぎれば大半の店が閉まるこの街で、日吉の狭いアパートと同じ家賃の1LDKに住んでいる。週末はペアーズの女の子とよくデートをする。自分で言うのも何だが、結構モテる。みんなNujabesもTOKONA-Xも知らない。恵比寿ガーデンプレイスもロブションも知らない。みんなが思う以上にテレビ局勤務というのはモテる。部屋だって自信がある。七色に光るアロマデフューザーや、黒いスチールの間接照明がないだけでセンスがいいと思われれる。大学は慶應、だなんて言ったら、それはもう驚かれる。そういう街で生まれ育ち、そういう街に戻って来た。0.02はAmazonで定期購入している。そうすれば少し安くなる。

最近スズキの車を買った。特注の赤いレザーシート。夜中に家に帰って、車を出して、海のほうへドライブする。たまに変な衝動に駆られて、窓を締め切った車の中で、何てこともないような顔で、大きな声で叫んだりする。そのすぐ近くを走るその日最後の「こだま」が、その声をかき消し、このまっ平らな街にまた静けさが戻る。

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