日記(思いついたときに書く)

11/7(月)

お昼ごはんのオートミール卵粥のために卵を割ったら双子の黄身が出てくる。インターネットでその奇跡を散々見てきてから「インターネットで見たやつだ」と思う。奇跡とは程度によるがその多くは個人の両手がつくる水たまりのその海の大きさを前提としているからインターネットがそれを狂わせる。インターネット時代において個人が奇跡と認知できる奇跡として一体なにが残っているだろう。
夜は友達と六本木にごはんに行って解散後にひとりで松に行く。隣の席が地獄。ずいぶんモテる女の子とその子のことが好きな男。女の子には最近二人目の彼氏ができる。奔放な彼女はしかしそれでいて隣の彼を歯牙にかけない。彼はそれを知ってか知らずか「理解者ポジ」で一発逆転を狙う。「分かる」「あー分かる」「なるほど」「なるほどねなるほどね」。「●●って頭いいけど鈍感なとこあるじゃん」その鈍感さが自分だけに向けられていると知っていてか、それとも知らずか明るくそう投げかける言葉は行き場を失ってお店のデカいスピーカーから流れるエリック・クラプトンに干渉されて曖昧に消える。届かない好意の気持ち悪さをドッジボールの投げられたボールのように胃の腑で受け止められるものだけが荒野を進む。(ただ脈のない恋愛において良い人は報われない)

11/6(日)

視野検査を受けに眼科に行く。先日なんてことのないコンタクト検診で緑内障の初期症状の所見ありと言われて色々と検査を受けている。目が見えなくなる、という未来を予見したことがなかったが起こりうる未来の自分の姿としてそれが入ってくる。たとえば50代でまったく見えなくなったら暮らしはどんなだろうかと想像する。僕は人類の可能性を信じている。その頃にはきっと目が見えなくても困らないかそもそも目が見えなくなることがないのではと楽観的に考えている。そうならなくても困らないようにと、それで検査を受けている。何かを信じつつそれでも備えることは少なくとも健康においては不信心ではない。しかしこれが信仰の世界だったらどうだったろう?神は視野検査を受けることを許すだろうか?
ところで視野検査はすごい。すざましい。無機質な白いドーム状の見つめる中心には小さな真っ黒な穴とそのさらに中心にオレンジの光。それをじっと見つめるうちに世界が真っ暗になってゆきドームに投射される微かな光が死にゆく星のように視野の端にチラつく。荘厳な神殿のようであり宇宙のようでもある。過去のあらゆる経験の中でもっとも死に近い経験。クリスチャン・ボルタンスキーを思い出す。全員受けた方が良い。
平日は人と会うことが多いので最近は土日は一人で過ごすことが多い。今日も家でごはんを作る。乾燥ポルチーニを日進で買ったからいろいろ試している。高級な乾燥ポルチーニから取った戻し汁を安いエリンギに吸わせる手法を知る。それはつまり捧げ物の巫女である。それはつまり人格性と身体性の分離である。その点で言えば本の映像化というのも同じ関係にありそもそも「物語」を本にする過程も同じだなと思う。形のない思考を形にするときに失われるものは何で逆にあらたに付加されるものは何なんだろうと考えるが白ワインで霞んだ脳は思うように動かず遺書のように日記を書いている。

11/4(金) 

蟹を食べる。最近はどこのお店に行っても上海蟹を勧められるから頼む。正確には頼んでもらう。人のお金で食べる蟹ほどうまいものはない。
最近気付いたというか、ずっと気付かないフリをしていたがおそらく自分は軽度の蟹アレルギーで食べると唇や腕が痒くなる。痒くなるだけでさほどの害はないしそのさほどの害よりも蟹を食べる喜びのほうが大きいので結局ジュウジュウと蟹の紹興酒漬けを吸う。決断とはすることとしないことの比較の結果である。

10/26(水) 

ネギを買う。近所のサミットには産直野菜コーナーがあってそこで野菜を買うのが好きだ。今日も青唐辛子が売っている。今日も売れ残っている。すごく辛いらしい青々とした唐辛子を年がら年中作っている農家がいるらしい。売れているのを見たことがない。でも常に青々とした唐辛子が青々としたまま棚に補充されている。生産者と仕入れ担当者を結ぶ目に見えない絆は爽やかなカプサイシンの味がするだろうか。今度買ってみようと思う。
ネギを刻む。5本の束を240円で買って全部刻んで冷凍する。刻んだ野菜を冷凍するのが好きだ。写真は死んで行く時の記録だと篠山紀信は言うが冷凍はその反対かもしれない。写真の対義語は冷凍。
例のネギと、大ぶりに切った鶏肉と、刻んだエノキと白菜で鍋をやる。冬なんて毎日鍋で良い。残った野菜と肉は全部冷凍する。同じものを毎日食べることに苦はない。同じような毎日を食べて過ごしている自分にその資格はない。惰性のぬるま湯に首まで浸かって生きている。
数日前から一日一食を実践している。食事のありがたさを身に沁みて感じる。お腹が温まったら元気が出てこの時間から風呂掃除をする。ピカピカになったお風呂に43度のお湯を溢れるほどに沸かすのが好きだ。お風呂に首まで浸かってこれを書いている。事情があって久しぶりに山内マリコの「あのこは貴族」を読み返している。そういえば風呂で常温のミネラルウォーターを飲むのも好きだ。今日は好きなことばかりで気分が良い。同じような毎日に同じような気分の良さがあるのは素晴らしいことだ。

10/25(火)

ゴミを捨てる。45リットルのゴミ袋に入れる。最後の一枚のゴミ袋を引っ張り出すと「ゴミ袋の袋」がゴミになる。それをゴミ袋に入れる。これは親殺しの物語だなと思う。あるいはこれは輪廻転生の物語でもあるなと思う。ゴミ袋の袋はいつの日かリサイクルとかの末にゴミ袋になるのかと想像する。ゴミ袋の人生に関する自分の無知を思い知らされる。
よく分からん会で仲良くなった友達ふたりと新宿三丁目で飲む。「仕上がったおじさんたちに長年続けている趣味を聞くのが趣味」という話を聞く。それはつまり自分が若いうちから取り組むべき趣味を探す試みである。ぼくたちコスパ世代は趣味についてもコホートみたいな発想を持つ。仕上がったおじさんたちの趣味には「短い期間と低いコストで達成感を得られる」「合法的に射幸心を満たせる」という共通点がありますよねという話をする。例えば前者は筋トレであり後者はRIZINである。子育てこそが最大の麻薬であるという話をする。神が人間を創造したとすれば人間が赤ちゃんの写真ばかりをインスタストーリーに上げるのはその成功の証である。
一軒目は上品に魚主体のイタリアンを食ってワインを飲んだので下品に酒飲みながらタバコ吸いて〜というみんなのニーズに応えるべくゴールデン街に行く。タバコを吸う。タバコを吸うのは肺を汚す実感があって良い。今のところ長く生きることの価値を見出せない。タバコがうまいうちに死にたい。そういう人たちはだいたい気が合う。スタンド使いは惹かれ合う。お店では揮発したアルコールの瓶にマッチの火をつけて火が上がるYouTube動画を見たらしい女性客がその真似をすべく僅かにお酒の残った瓶を青いセーターの脇で擦ってアルコールの気化を促している。火は永遠に上がらない。傷んだアクリル繊維の葬式を心の中でやる。彼女がやりたかったことが火を上げることだったのか酒場における一種の滑稽な演劇的風景のプロデューサーになることだったのかと考える。話は変わるが人は主役よりもプロデューサーになりたがるという話をこの間誰かとした。Doerを諦めた人はDoerを馬鹿にして操作したがるようになる。一昔前の「熱狂せよ」に煽られた人はDoerになることを強要されるがベッドを離れて熱狂するのは面倒臭い。「それって無意味ですよねw」という冷笑はベッドの上でもできる。メモの魔力をその右腕に宿せなかった人たちは今やベッドの上で何かやった気になるフォーマットを麻薬のように吸っている。今日はなんだか麻薬の話ばかりしている。それってあなたの感想ですよねw
成熟した世界で僕らができることってつまりはシステムの小さなハックでありそれは自分に対する諦めですよねという話をする。歩道のインターロッキングの隙間から生える雑草を抜くようなこと以外に僕たちは社会を良くする手段を持たない。ふと実家のイングリッシュガーデンを母親が不用意に植えたミントが制圧した景色を思い出す。ハックにはあくまでも限界がありしかし僕たちは小さなハック以外に手段を持たない。最悪だ。
お店を出たら外は雨。どうせすぐタクシーに乗るのだから傘はささない。しかし雨は降るのでタクシーに乗る頃には濡れ鼠になる。ひどく遠回りをされてこの出発地では過去最高額で帰宅。タクシー運転手にも生活がある。これは都市生活の当然のコストである。コストは巡り巡って自分のところには帰ってこない。そういうものである。それを許容できない人は都市生活に向いてないと思う。我々は都市という大きな生態系を維持するための小さなミツバチに過ぎない。

10/24(月)

イベントで動画の王・明石ガクトさんと話す。最近思うが聞き手というのは受動的な行為のようできわめて能動的な行為であり話し手に濃い自己内面性を浴びせかけたときに浮き出る模様のロールシャッハ・テストこそがインタビューである。面白い人と話すのは面白いけど面白い人から話を聞かれるのはもっと面白い。
質疑で「チームマネジメントの観点からクリエイターの自己顕示欲を抑えるためにどうすればよいか?」という実務的な質問が出る。自己顕示欲とはつまり「自分ひとりの力でやっていける」「この成功はすべて自分ひとりの力によるものである」という自己過信から生まれるものであるからグーグルの20%ルール(業務時間の20%を業務以外の好きな仕事に充てるルール)のように自分ひとりだけで仕事をやらせると「現実」が見えるので鼻の柱がボキボキ折れて大人しくなりますよという話をする。世の中はみんなが思うより単純ではなく成功も失敗も無数の独立変数が生んだ複雑な機械式時計の時刻の表示に過ぎない。我々は社会の小さな歯車に過ぎない。
帰りに友達とおでんを食べる。熱燗を頼んだら徳利とともに小さいお猪口が供される。それにより「お酌」が普段より頻繁に生じる。コミュニケーションの形は環境が作るのだと気付く。関係性がフラットな飲み会ではお酌の回数なんて多ければ多いほど良い。友達のために何かやれる機会なんてのは日常においてはお酌くらいなものだ。
少しだけ松に寄ったが面倒な客はいなくて胸を撫で下ろす。毎日これで良い。

10/23(日)

昼前に二日酔いで起床。松(よく行くバーのことです)の治安の悪化を嘆いて深酒したのが原因。お前が悪い。おれは悪くない。トリケラトプスでブリトーを買って食べる。
話題のドラマ「silent」を一気見しようとしたが一話から重たくて途中で一話も見終わらぬうちに休憩に入る。重たいドラマを一話まるごと見るのは心のカロリーをかなり消費する。リアタイ視聴とは完走を自己強要する装置だったのだと気付く。心のカロリーは一日に使える量が年々減ってゆく感覚がある。こうして人はスラムダンクおじさん(新しいコンテンツを消費しその良さを理解することができず何歳になってもスラムダンクの話をしているおじさん)になってゆくのだと不安になる。
「サイン本がなくなりそうだ」と大盛堂の山本さんから連絡を貰ったので渋谷に行く。友達から高そうな傘を借りパクしていて、その彼と夜に広尾で会う予定があるから晴れているのに傘を持って行く。「まさか夜から雨が降るのか」とそれを見た人が不安になったら面白くていいなと思う。サインを書いたら広尾に移動する。昔パルテノペだったところの経営が変わった(ピザ担当の人がお店を買い取った)との噂。年下なのに僕より稼いでいる友達ふたりが不動産の話をしているのを聞く。そのあと最近のデート事情の話になってやっと会話に参加する権利を得る。恋愛は民主的で扇情的である。民主的であることと扇情的であることは割と近い概念である。気のいい友達と割り勘でうまいものを食うのは楽しい。次は乃木坂の寿司屋に行くことが決まる。
傘の友達ともう一杯飲むか、松には当面行きたくないなと話して天現寺橋あたりの行ったことのあるバーに行く。近所に住んでいるらしい仕上がったお姉さん二人組に絡まれる。京都のイタリアンレストランが感動するほどうまいと勧められる。人は東京に飽きると東京から出てゆく。しかし引っ越すほどではない。そう考えると周りの人が続々と引っ越している湘南やら鎌倉やらの魔力というのはすごい。まぁ全国的視座からすれば港区も湘南も鎌倉も誤差みたいなものである。次回作は葉山あたりを舞台にしようと思っている。
お姉さんたちの勧めるままに4時間ほどお酒をたくさん飲む。タクシーで帰宅。後半の記憶はあまりないが楽しい一日であることに間違いはない。

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