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物忘れが激しくなった母との思い出

「あれ、来るの明日じゃなかったかしら」久々に実家で会った母はすっかり物忘れが激しくなっていて、客間には通販カタログで買ったきり箱も開けていないアロバイクやら健康食品やらが山積みになっていた。

「隣の山内さんとこ、名前なんだったかしら、まだ医学部浪人してるんですって」母はお茶を出しながら、ラインで何度もした話をした。山内さんとこは医者の家で、僕と同じ年の長男の雄太くんは親の言うままに医学部を受けては落ち、また受けては落ち、ここまで来れば引っ込みがつかなくなって、センター試験の日を起点にした終わりのないループものに突っ込まれていた。
「あなたは地頭がよくてよかったね」地頭、という便利な言葉を、母はこの数年で覚えたらしかった。僕が現役で医学部に入って、その後も変な気を起こすことなく順調に勤務医への道を歩んだことの根源が、自分の子宮の中で僕に与えられたのだとでも言いたいようだった。僕は何も言わずに、ミッキーの絵のついたマグカップで冷たい麦茶を啜った。

何となく家にいるのが窮屈で散歩に出た。この街は驚くほど変わっていなかった。「たんぽぽ」というお好み焼き屋さんには相変わらずお客が誰もいなかった。武田さんちのブロック塀の穴のところには相変わらず黒々しい苔が詰まっていた。田んぼには稲がワサワサと茂っていた。当時僕がタニシの匂いだと信じていた、あのアルカリっぽい匂いが一帯に満ちていた。

18歳で実家を出た。母の望むとおり浜松の医大に現役で合格した。都内で研修医をやって、そのまま都内で勤務医になった。そこから理由をつけて実家には帰っていなかった。今回帰ったのも、ロクに会ったことのない親戚の葬式のためにどうしても、と母にしつこく乞われてのことだった。夏用の喪服なんて持っていなかったから、大学の入学式のときに作ってもらった、みっしりと重い式典用の黒いスーツを持って新幹線に乗った。

夜ごはんには山盛りの唐揚げが出た。丁寧にパセリにレモンまで添えてあった。今年で30歳になる僕には明らかに多すぎる量だった。母の中で、僕は18歳のままで止まっているようだった。「今どこに住んでるんだっけ」「あなた、上野だって言ってたじゃない!忘れっぽいんだから」忘れっぽいのは父ではなく母だ。上野はもう何年か前に引っ越して、今は広尾のあたりに住んでいた。

翌日には葬式があって、僕はろくに顔も覚えていない親戚たちに囲まれてろくに喋ることもなくて、せめて冷房が強めで良かったとか、そんなしょうもないことを考えていた。外は場違いなほどの晴天だった。

遺体を焼く間、葬儀場の二階の畳敷きの部屋で小さな昼食会が開かれた。テーブルの瓶ビールの横には、久しく見ていなかったバヤリースの瓶なんかがお行儀よく並んでいた。

「大ちゃんは医者になったのか」警察を退官して、今はおそらく何かのコネで警備会社に勤める親戚が幾分か酔って絡んできた。「うん、今は虎ノ門あたりで働いてる」うまくもまずくもないお浸しを箸でいじりながら、この安っぽい宴席の話題が僕から他の誰かに一刻も早く移ることを祈っていた。
「へー!虎ノ門ってあれだろ、虎ノ門ヒルズとか。もしかしてあれに住んでんのか?」迂闊にも出した虎ノ門、という単語がこの田舎でも引きを持っていたらしく、最悪なことにそこから勤務先や家について根掘り葉掘りされた。森ビルを呪った。
今や周囲が医者ばかりだから感覚が麻痺していたが、外銀や商社のないこの街で「一番偉い」で第一想起を取れるのは医者だった。僕の、まぁそれなりに豊かな都市生活の全貌が明らかになってゆき、親戚一同の羨望の目が集まってゆくのを、母は妙に静かに、しかし誇らしげに見ていた。こういうことがしたくて僕を呼びつけたのか、と、その時やっと気付いた。
「しかし勉強大変だったろう、隣のとこの子なんて何浪しても医学部入れてないんだろう」母はそんな話まで親戚にしていたらしかった。下品だな、と思った。
「でも放っといても自分で勉強してくれる子だったから楽チンだったのよ」母がそんな言葉で満を持して会話に参加してきたその瞬間、その言葉を耳がとらえ、頭が認識したその瞬間、僕の血がグラグラと沸き立ち、頭がカッと熱くなるようなそんな気持ちになって、でも何事もなかったかのような顔のまま、すでに温くなったグラスのビールを飲み干した。

「もう少しゆっくりしていけばいいのに」東京でも色々と予定があるから、とか適当な理由をつけて断って、葬式が終わって家に戻るとすぐにタクシーで新幹線の駅に向かった。車窓には変わり映えのしない、少しずつ埃が積もり、一秒ごとに少しずつ死んでゆく地方都市の街並みが時速30キロでずるずると流れた。

棒。棒について、大学の何かの飲み会で話が盛り上がったことがある。親の望むどおりに勉強をしない子を殴るための棒。ある同期は木だったと言い、別の同期は竹だったと言っていた。木が多数派だった。みんなで笑った。妙に大きな声で、そこに多少の無理が感じられるほどに、大きな声で笑った。
うちは竹だった。どこからか母が買ってきた竹刀だった。かわいらしいとんぼのマークがアクセントで入っていた。母はその暴力を思う存分に振るった。よくある地方の中流家庭だった。父は平日は仕事で遅いし、土日は接待ゴルフや何やらで家を空けていた。空いた家を母が支配した。「お前のせいで大介がバカに育ったら許さん」旧帝大卒の父は、短大卒の母にまるで笑える冗談でも言うように、晩酌の缶ビールを飲みながらそんなことを言っていた。母は母でプレッシャーを感じていたのかもしれないし、成績はいいのに宿題をサボってポケモンをやりたがる息子のためを思ってくれていたのかもしれないし、何にしろ母は、時に竹刀で僕を叩いて、無理矢理にでも勉強机に張り付かせた。

実のところ、僕は怠惰な子だった。人生の崇高な目標みたいなものはなくて、色んなことを器用にやって流して、まぁ父くらいの稼ぎを得て、積水ハウスのウッドデッキのある家に家族3,4人くらいで住んで、毎晩の晩酌に発泡酒ではなくビールが飲めるくらいの人生にうまい具合に着地できればいいと、それくらいのことを考えていた。
その怠惰な僕を、今や「自己研鑽」なんて肩肘の張った行為をやれるまでに勤勉な性格に矯正したのは、間違いなく母と母の持つ竹刀だった。あれがなければ、地元の大学に進んで、適当に地銀にでも就職して、セールのサッポロ黒ラベルを飲む日々があったかもしれない。それでも、病院の床にファイルを落としてしまったときの、バチン、という硬質な音を聞くたび、記憶の奥底に眠るというか、無理やり蓋をしたそれが蘇ってきて、たとえば自分に子どもが生まれたとしてAmazonで竹刀を買うか、みたいなことを考えて、憂鬱というほどでもないけど、その手前くらいの気持ちになって、小さなため息を吐いてしまう。

 タクシーとは比べ物にならない速度で新幹線はこの街を置き去りにして東京へ向かう。母はただ忘れっぽくなっただけだったのか?それとも彼女なりの罪悪感めいたものが、一種の歴史修正を生んだのか?行くあてのない考えはぼんやりと頭を巡って、夜ごはんは南麻布のフレンチにでも行くか、と全然関係のない考えがそれを押しのけて、僕はグリーン車で静かに眠りについた。

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