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ゆだねつつも何かを選択している

心の持ちようやありどころが全ての事柄に反映するのだとしたら、心を常に穏やかで、誰もが理想的だと思うような状態にしておく必要があります。とは言え、実際には心には浮き沈みがあり、常時フラットにしておくことは難しいです。

 たとえ高僧として崇め奉られている人でも、大なり小なり悩みを持っています。その悩みが本人にとって解決困難か、それともささいな事なのか? そういった事柄に個人差があります。

 何を話す時でも「個人差」が出てくることにうんざりするかもしれませんが、個人差があればこそ、人生の楽しみや苦しみに個性が生じて、私達はそれらを味わうことができます。似たような悩みを持つ人々はお互いを助け合うでしょう。また、自分が知らないことで悩んでいる人がいれば、その人を見ることでその悩みを学んだり、まるで自分のことのように考えて解決を助けてあげられたりできます。

 人が考えることをやめることはありません。目が覚めている間は常に何かを考えています。生産性のない思考もあれば、ただ単に何かを味わったり、感じるだけのこともあります。

「ゆだねる」という言葉があります。「天や神に全てをゆだねる」と言う人もいますが、そうは言っても、ゆだねながらも何かを思考し、あるいは選択したりしていることでしょう。さもなくばその人はただ単に床に横たわり、糞尿を垂れ流すだけになるかもしれません。

 必要最低限の、いわゆる自律神経の働きにより、呼吸や血液の循環、老廃物の排泄などが行われ、それは天や神の御業(みわざ)によるとも言えますが、その上で何をするかは個人個人にゆだねられています。丸投げしているつもりでも、投げ返されていることを忘れないで下さい。

 二本の足で歩けるなら歩く。それが無理でも人はきっと好きな所へ移動することでしょう。

 ありがとうございました。(2023.3.6)

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