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ヒロシのCD部屋 - ピアノの棚 ①

今回はアメリカ歴史上初のスーパーエンターテイナー、ゴットシャルクのお話し。

ルイス・モロー・ゴットシャルク

は、1829年にアメリカのニューオリンズにあるクレオール街に生まれる。
幼い頃から音楽に興味を持ち、ピアノを習得し10才でピアニストとしてデビュー。母がフランスの貴族の出だった事もあり、本格的に音楽を学ぶ為に12才の時に当時音楽のメッカだったフランスに渡る。
パリ音楽院に入学を志願するものの、新世界からの来訪者はほとんどが野蛮な人間との偏見が横行していた為に、演奏すら聴かれずに門前払いをくらってしまう。
仕方なくピアノや作曲の個人レッスンにつくが、奇しくもそこではビゼーやサン=サーンスが同門となった。
しっかり六年間勉強をしたのちに、20才でパリ楽壇へデビュー。技巧的でエキゾチックな雰囲気を持つ自作曲を含んだプログラムによるリサイタルは、非常に評判となり瞬く間にパリのサロンの人気者となった。
同様に当時のパリで人気ピアニストだったショパンがゴットシャルクを「ピアノの帝王」と称し絶賛。同じく人気作曲家であったベルリオーズは彼の熱烈な支持者となり、その友情はその後も長く続いたという。
パリで約10年間活躍したのちアメリカに凱旋帰国。その後二年間で1500回ものコンサートを開いた記録が残されている。
のちに中南米各地を遍歴を始め、36才の時には女学生とスキャンダルを起こしたことをキッカケに逃げるようにブラジルへ移住。
1869年40才の時に虫垂炎をこじらせ、演奏会の最中に倒れそのまま還らぬ人となった。
自作コンサートでの「Morte!(死)」の演奏後、「最後のトレモロ」を演奏中だったという。

多作家の彼の作品には、大規模なものに650名の演奏者を必要とするものや、40台のピアノを使用したりとグレインジャーもビックリのド派手なものがあるが、そのほとんどはピアノの小品が主。
ショパンやリストを思わせるサロン的な雰囲気と技巧的フレーズに、ニューオリンズの黒人音楽、さらには中南米のトロピカルなリズムなどを大胆にミックス。当時としては非常に斬新で、ストライド奏法のような左手の動きをすでに取り入れるなど、ラグタイムやジャズの先駆け的な作品の数々とされる。
その他、オケがらみの曲は残念ながら大味でちょっと雑な印象の音楽が多く、今後も日本ではまず取り上げられないだろうなあ。

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かのホロヴィッツの弟子でもある

アイヴァン・デイヴィス

の演奏は、さすがのテクニックで、煌めくような音色で駆け抜けるパッセージ、躍動しまくるリズム、とめど無さ溢れるテンポ感、変幻自在の絶妙アゴーギグなど、エキゾチックで華麗な音楽を最大限魅力的に表現。
探してみると意外と数があるその他の演奏を、はるかに凌駕するパフォーマンス!
この人の一番有名な録音は、マゼール&クリーヴランドと1974年に録れた「ラプソディー・イン・ブルー」。
今一つハッチャケ切れないオケにつられたか、さらりとテクニックをひけらかしてるのに関わらず、全体がちょっと地味な印象になってしまってるのが残念。
この他に、チャイコとラフマニノフの王道コンチェルト2題、リストのコンチェルト、グリーグやブラームスのアルバム、近代アメリカのピアノ小品集など、出来にバラつきはあるものの聴きごたえ充分な録音が少なからずCD化されているが、ディスコグラフィーを見るとまだまだ埋もれてるもの(レコード)が多数あるらしい。

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