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転職を機に作文を書いた📝

今日から4月。
一日一日が、あっという間に過ぎて行く。目まぐるしく早い!
転職で、入職書類の、作文、職務経歴書、履歴書もほぼ出来上がり、社会人になってからの棚卸しができた気がする。

30年ぶりの入職希望で、作文を書いた。
テーマは、「私の考える看護とは」
久しぶりの作文に、ワクワクしながら、初noteの題材にしてみる。

私の故郷は、長野県の東部に位置し、日本一長い大河「千曲川」が流れ、江戸時代より城下町として栄えた小諸市。
雄大な浅間山の景色を眺める事が出来、そんな土地で、優しい父と頑張り屋の母の長女として、私は育った。

母は、地元の病院で看護師として働きながら、自動車商をしている病気がちな父を支え、私と妹を育ててくれた。

物心ついた頃から、母は働いており、私は、近所の幼なじみの子の家や母の知人の家に預けられていたが、当時を振り返ると、不思議と寂しい思いをしたという記憶は無く、私の世話をしてくれた、祖父や母の知り合いの叔母さんの優しい顔が思い出され、懐かしく暖かい気持ちになる。

そんな環境で育ったが、仕事に関しては、反発心もあり、看護とは関係ない仕事に就きたいと思っていた。
母は、父が、病気がちで、収入のやりくりも大変で、看護師をやっていたおかげでやってこられたという思いもあり、私を看護師にさせたいという気持ちも強く、私は、母に説き伏せられ、半ば、諦めた感じで、看護学校に入学した。

そんな私が、看護の仕事を35年以上も続けてこられたのは、今思うと不思議な感じがする。
母に、先見の明があったのかも知れないが、看護の仕事に就かせてくれたことを、今ではとても感謝している。

そんな母も、4年前に、父の後を追うようにして亡くなった。
父と母の闘病生活は、それぞれ2~3年だったが、妹と一緒に介護をする中で、私の看護の考え方も少しずつ変化してきたように思う。

父や母も、もちろん病の中にあって、苦しくつらかったと思うが、側で支える家族の苦労も大変で、仕事、生活をしていく中で、解決する術も分からず、どうしたらいいのだろうと悩み、そんな時、一緒に考え、サポートしてくれる看護、介護に携わる人達の支えが、とても頼もしく、励みになった。

自分の家族が病気になり、初めて本当の看護のあり方を教わったように感じた。

そんな私の今までの生活を振り返り思う「私の考える看護」とは、患者さんや患者さんに関わるすべての人が、心穏やかに療養できる環境が作れるように一緒に考えていく。そして、患者さんと家族に寄り添い、見守り、そのサポートをする。
そんな看護を目指していきたい。

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