見出し画像

ジャックスというバンドと僕

伝説のバンド、ジャックスの68年、69年の発掘音源が2枚、続いてリリースされました。どちらも歴史的記録として残された事が素晴らしいと思います。

特に「2ND JACKS SHOW,JULY24,1968」はファンが勝手にレコーディングし73年に個人的に限定枚数のみをプレスしたという作品。盤起こしですが丁寧なマスタリングのせいか意外と音も良く、PAもない時代「ステージ上で何やってるか全然分からなかった」というメンバーの発言のわりにはしっかりした演奏で、コーラスの音程もしっかり取れていて驚きました。

それとリーダーの早川義夫さんが2020年に出版したエッセイ「女ともだち」を宮藤官九郎さんが絶賛していたので読んだのですが、かなり赤裸々な内容で驚きました。

そのジャックスと僕の関わりについて書こうと思います。

日本語のロックははっぴいえんど(70年デビュー)が始祖であると言われますが僕は2年デビューが早いジャックスではないかと思っています。

ただ、はっぴいえんどは日本語でロックをやる事に意識的で豊富な洋楽と文学の知識と素養のもと作品を作っていますが、ジャックスは知識も情報も少なくメンバーのインタビューを読んでも、訳も分からずやってみたらこんな音楽が出来てしまったという違いがあると思います。

特に彼らのファースト・アルバムはサイケデリック、ガレージ・ロック、アシッド・フォークの名盤としてベルベット・アンダーグラウンドのファースト(67年リリース)に並ぶ名盤だと個人的には思っています。

彼らの事は知ったのは80年頃、甲斐よしひろがパーソナリティーのラジオ番組でジャックスをかけた時です。衝撃を受けた僕はアルバムを探したのですが当時は廃番。先輩が図書館で貸し出しされていたアルバムをカセットにダビングしたものをさらにダビングしたものを聞いていました。

その後、83年僕は東芝EMIに入社。宣伝部を経て85年に希望の制作部に移動となり晴れてディレクターになりました。

ディレクターになったとはいうものの最初はアシスタントで先輩のディレクターのスタジオに行ってレコーディングというのはどのように進められるのか見に行くというもので、仕事といったら出前を頼むという事くらいです。

あまり面白くない僕は当時は廃番のジャックスの再発を企画しました。今はどのレコード会社にも再発専門、カタログと呼ばれる部署がありますが、当時はRCサクセションなど稀な例をのぞいて廃番になった邦楽のレコードが再評価されて売れるなんていう事はないので再発という概念もあまりなかったと思います。

ですが、代表曲のひとつである「からっぽの世界」は「啞」という言葉が差別用語であるという事で再発は出来ないと会社から言われてしましました。僕は悔しいので「からっぽの世界」とクレジットはあるけれど曲の長さと同じ分数を無音で収録するというアイディアを思いきカッティングまでしたのですがダメだと言われました(当たり前)

そして当時は本屋を営んでいたリーダーの早川義夫さんにもコンタクトを取り「本を仕入れに神保町に行くから、そこで会いましょう」と言われお会いした記憶があります(何を話したかは覚えてないですが、かなり緊張したと思います)

結局、名盤のファースト・アルバムは再発出来ず、代表曲「からっぽの世界」は収録されていない「レジェンド」というベスト盤を85年にリリースしました、今でこそレジェンドなんていう言葉は普通に使われますが当時としてはベスト盤につけるタイトルとしては、かなり斬新だったと思います。

これが特に宣伝もしないのに50位にチャート・インしたんです。「オリコンの左ページ入り」というやつですね。当時の制作部長だった故石坂敬一さんに溜池の会社のそばにあったキャピトル東急の高級中華で「初ヒット、良くやった」とランチを奢ってくれました。当時町中華くらいしか行った事がないので食事中に「直箸はやめろ」と怒られた事も覚えています。

その続編として未発表音源も翌年リリースしました。

その後、言葉狩り的な考えで過去の芸術作品を封印するのは良くないという事で「からっぽの世界」もいつの間にか解禁され、CD化され普通に聞くことは可能になりましたがCD化初期のマスタリングだったので音もあまり良くない物でした。

そして時はすぎて2008年ジャックスはデビュー40周年だという事に気がついた僕は記念のボックス・セットを企画しました。10年後の50周年にはCDは無くなっておりしっかりとしたフィジカルで彼らの作品をリリース出来る最後のタイミングだと思ったのです(と思ったら意外にまだCD残ってましたね)

歴史的アーティストの完全決定盤のボックス・セットにするべく出来る限りの素材、資料、証言、未発表写真などを集めようと思い、思いつく限りの関係者に連絡を取りました。その中で彼らの67年、彼らのデビューのきっかけになったオーデション番組出演時の放送音源(前後の紹介のアナウンスも最高だったので、これも故人の御遺族に許可をいただき収録しました)もTBSで見つかりました。

集めたアナログのマスターテープからまずは丁寧なマスタリングを行います。

坂本慎太郎さんのコメント、詳細はヒストリーのライナー、同時代を知る中川五郎さんのエッセイも寄稿いただき。ファンクラブの代表の方が持っていた会報、拷問浮世絵を模した名ポスター、未発表の写真も見つかりました。

最後までセカンド・アルバムの帯が見つからず締め切りギリギリで広島のコレクターが持っていると情報がありなんとか間に合いました。

リリースする際にメンバーの了解は契約上必要はないのですが、出来る限り協力していただければ思い、元メンバーの方にもコンタクトを取り、つのだ☆ひろさん、谷野ひとしさんにお会いし、協力は難しいのではとお伺いしていた故木田高介の奥様からも「そんなに経つんですね」という言葉をいただきました。

故水橋春夫さんとは、これを機に懇意にしていただき、その後も何度かお会いしました。その時関わられていたヒッホップのレーベルの音源なども聞かせていただきました。

一度、早川義夫さんのライブに水橋さんがゲスト参加するというライブを見たのですが、ファースト・アルバムのままの音とタイム感で驚いた記憶があります。

話を戻します。

ところが中心メンバーの早川義夫さんが「発売するのは構わないが特に協力は出来ない」というような連絡があり、気分的にはどこかすっきりしないまま、作業を進めました。

デザインは古い友人でミュージシャンでもあり、ジャックスのファンでもあるサリー久保田君の愛情と理解のあるデザインも仕上がりました。

発売すると枚数は記憶にないのですがあっという間にソールドアウト。追加の製造も決まるというこの手の作品ではかなりの売り上げた記憶があります。

そして暫くして早川さんから連絡がありました。詳細は忘れましたが「中川五郎さんのライナーを読んで、今まで嫌な思い出でしかなかったジャックスをやっと良い思い出に変える事が出来て嬉しかった」と連絡があり、この仕事をしていて良かったと思える瞬間でした。

最後に、小学2〜3年頃、八王子のサマーランドに行ったらプール・サイドでバンドが演奏していました。今でも「変わった雰囲気と音楽だ」と思った事をその場面も含めて覚えています。早川さんはインタビューで「サマーランドでで演奏させられて嫌だった」言っていたのです!絶対にそうだとは言えないのですが、僕はその時ジャックスに出会い何かを感じ、それは僕の何か変えたのかもしれません。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?