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「一力遼世界一」と囲碁界の今後

 私が囲碁を始めたのは2002年、当時小学4年生のころである。きっかけは言わずと知れた大ヒット囲碁漫画『ヒカルの碁』であり、アマ3 - 1級程度の、今は亡き祖父の指導を受けて囲碁を学んだ。 

 私が囲碁界の情報を積極的に仕入れるようになったのは、高校生になってガラケーを手に入れてから。それまでは、囲碁界の情報はせいぜい新聞の囲碁欄のみであった。日本の囲碁界衰退の流れ、国際棋戦での振るわなさを知ったのもその頃であるから、私は日本が囲碁の世界最先進国であった時代も、張栩の2005年LG杯優勝も知らない。私にとっての囲碁とは、とても楽しい娯楽であったとともに、衰退著しく、国際戦でも苦杯をなめ続ける難儀な代物でもあった。

 だからこそ、一力遼の応氏杯優勝、またその歓喜に湧く囲碁界というのは、20年以上に及ぶ私の囲碁人生において比類なき感動をもたらした。優勝の瞬間、画面に向かって自然と拍手し、両の拳を突き上げた。後は涙を流せば完璧であったが、それは済んでのところで食い止めた。とにかく、たかだか傍観者であったとしても、その瞬間に立ち会えたことが嬉しかった。



衰退

 昨今の日本囲碁界の衰退について、日本棋院の責任を問う声は少なくない。実際、私もSNS上で厳しい言葉を投げかけた経験がある。情報化社会、娯楽に溢れた現代社会に対し、日本棋院が繰り出す施策がヒットした例はなかなか思い当たらない。乾坤一擲の策として捻出したであろう日本女子囲碁リーグが苦戦しているのがその典型例と言える。


 他方で、我々が現代社会において囲碁という娯楽を享受できているのは日本棋院のおかげでもある。

 明治維新とともに、江戸幕府という最大のタニマチを失い、囲碁棋士は野に放り出された。そこで囲碁という文化が断絶してもおかしくはなかったが、新たに新聞社をスポンサーとして獲得し、トーナメント制の確立、それにあたっての持ち時間制やコミの導入などで、囲碁を近代的な娯楽に発展せしめた。激変する世の中に果敢に挑戦して囲碁の命脈を保ち、中国や韓国への逆輸入を経て、今や国際的な競技に発展している。この点については高く評価されるべきであろう。

 ただ、今の日本棋院に、そのようなチャレンジングな志向があるのかは疑問視せざるを得ない。2024年は日本棋院創設100周年である。今一度原点に立ち返り、今の世の中に適合した在り方の模索に挑んでほしいとつとに思う。


 最潮期には日本の囲碁人口は1000万人にのぼったとされるが、多様な娯楽が競い合う現代ではそのような数字は現実的でないし、苦境に立たされるのも世の中の流れとしては自然である。

 ただ、少なくとも、今の200万人とも150万人とも言われる囲碁人口を維持し、あるいは僅かでも増加に転じさせ、かつ囲碁界への興味を持ち続けてもらわねば、プロ棋士という職業がいつまで存続できるかは明らかでない。



対立構造

 話を一力遼の優勝に戻す。2024年9月8日の決勝戦第3局・対謝科戦は形勢が二転三転する激戦であった。私はほとんど一日中その対局にかぶりついていたのだが、普段の囲碁観戦ではまず感じることのない緊張感、焦燥感、高揚感などをつぶさに感じた。最後は一力の粘りを前にした謝のまさかの失策で勝敗が決したが、AIの評価値すら信用ならない難戦で、9時間近くに及ぶ熱闘もあっという間に感ぜられた。


 こうした激情をもたらしたのはひとえに国際棋戦、国対国の戦いという構図の力であるが、より広く言えば、その力の源は「対立構造」にあると言える。


 「囲碁界の衰退」という言葉を既に何度か使っているが、私は、その最も良い解決策こそが国際棋戦での活躍だとかねてから思っていた。日頃野球やサッカーをほとんど見ない人でも、WBCやW杯ならば見ると言う人は多い。国内で誰が勝った負けたというのには関心が持てない人でも、国際戦で国を背負って戦っている人に対しては応援する動機を持ちやすく、関心も高まる。

 しかし、それ自体が誤りだったのだろうか、と思うことも近年は増えていた。井山裕太のLG杯準優勝や、日本優勝にあと1勝まで迫った2022年農心杯、上野愛咲美のSENKO CUP優勝や黄竜士杯準優勝などでも、界隈の盛り上がりはそこまでだったように思う。どう転んでも囲碁界には再起の可能性はないのかとすら思えた。

 ただ、今回の一力遼優勝での盛り上がりからすると、どうもそれは杞憂だったのではないか、とも感じる。つまり、囲碁ファンは掛け値なしの「国際棋戦優勝」を望んでおり、それに及ばなかったものに高い関心を持つには至らなかったのではないか、と。


 ここで多くのファンの心を惹き付けたのは、そこにある「対立構造」の力だと説明できる。つまり、「一力遼 vs 中韓」「一力遼 vs 日本勢無優勝記録」の対立構造である。

 ここ10年ほどの囲碁界で盛り上がった話題は幾つかあるが、それらの盛り上がりも対立構造で説明できる。つまり、

・井山裕太の七冠達成→「井山裕太 vs 七冠への壁」
・上野愛咲美や藤沢里菜の活躍→「女性棋士 vs 男性棋士」
・仲邑菫の活躍→「最年少棋士 vs それまでの最年少記録」

 といった具合である。このような、片側を応援したくなる構造があれば自然とそこに注目が集まるし、話題性もぐんと高くなる。


 ただ、こうした分かりやすい対立構造で界隈を盛り上げるのは限界もある。そのような対立構造の種類には限度があるし、その恩恵を受けられる棋士も一部に留まる。結局、即時的、一時的、部分的な効用は得られても、それ以上の発展には繫がりにくいのである。

 ここ最近日本棋院が女流棋士にフォーカスして人気を集めようとしているのも、この点からあまり得策でないと私は思っている。女流棋士に人気があるというよりは、「女性棋士 vs 男性棋士」「最年少棋士 vs 最年少記録」という対立構造に興味が集まったに過ぎないと考えられるからだ。


 本来、プロスポーツにおいて、そうした対立構造の最右翼となるのは、ひいきの選手やチーム、今風に言えば「推し」の存在ではないだろうか。

 極論ではあるが、例えば多くの野球ファンにとっては、プレイの内容や中身よりも、ひいきチームの勝敗だけが何よりも大事である。もちろん、素晴らしい打撃や守備、投球に感激したり、逆にだらしないプレイに憤激したりもするのだが、それらは「ひいきチームの勝敗」に比べれば副次的な要素にすぎないと言える。多くの場合、素晴らしいプレイのやり取りの末の負けよりは、泥じあいの末の勝利の方がファンは喜ぶのである。


 これを囲碁界に当て嵌めてみると、「推し棋士」を探すのがかなり難しいと言わざるを得ない。棋士個々の個性や人物像がなかなかファンに伝わっていないからだ。

 「推し」がいないのでは、誰かを応援するという観戦スタイルを取れない。プレイの中身を楽しむしかなくなるのだが、それでは感動や感激、満足感を得るのはハードルが高い。囲碁の場合、棋士の高度なやり取りを理解できるアマチュアはごく限られるので猶更である。



 これをうまい具合に解消しているのが麻雀界である。いや、麻雀は1戦ごとの所要時間が少なく、囲碁に比べれば「ファインプレイ」も分かりやすい。単純に比較するのはキツいところはある。

 しかし、麻雀界は選手個々の個性や人柄を伝えるところに、囲碁界とは比べ物にならないほど力を入れている。ほとんどのプロに「最強最速」や「ゼウスの選択」と言ったようなニックネームが付され、雀風(囲碁で言う棋風)もセットで記憶される。Mリーグでは個々の選手の人柄なども自然とファンに浸透するような仕組みが整えられており、推しのチームや選手が容易に見つけられる。かつては「麻雀プロ」と言えば食えない職業の代名詞のようなものだったが、今は囲碁界とは比較にならないほどの盛り上がりを見せている。見習うべきところは多いはずである。


 囲碁界を見れば、上野愛咲美には「ハンマー」、藤沢里菜には「半目の女王」や「リーナゼロ」というニックネームがありはする。ただ、ファンの間で自然にニックネームが定着したのは直近10年でこの2人くらいだろう。井山裕太の「魔王」や一力遼の「遼神」は国外からの輸入のようなもので、日本のファンの間で自然に定着したものではない。

 他方で、ファンの間で自然に定着したものではないが、若手棋士の大竹優には「平明流」、酒井佑規には「混沌流」という面白いニックネームがある。どうも本人たちはあまり乗り気でないらしくもあるのだが、こうした呼び名があるだけでも私は「どんな碁を打つのかな」と興味を持てた。

 理想的にはファンの間で自然にニックネームが生まれる環境が好ましいのだろうが、今の囲碁界ではファン側の活力も乏しい。ファンの奮起・協力も期待されるが、まずは棋士側から積極的に発信していってほしい。



 閑話休題。

 棋士の仕事は棋譜を残すことに集約される。しかし、棋譜だけを残せば関心を持ってもらえるような時代は既に終わっている。今の時代、極上の棋譜を見たいのであればAIに依頼して無機質な棋譜を量産できるが、そんなものに興味があるファンはどこにもいない。

 そして、人となりも分からない棋士が、AIで勉強した手法をそのまま並べ、淡々と勝った負けたをするのであれば、それはAIの棋譜と大差ない。


 AIの真似をするのが悪いのではない。その棋士がどんな人物で、どんな個性を持ち、何を考え、どのような碁を打ったのかの説明が無ければ、大半の囲碁ファンには何も伝わらない。それこそが問題なのである。

 囲碁界では、積極的に自己を発信することにためらいがある棋士が多いようにも感じる。どうも今の囲碁棋士は、自身の棋士としての能力や見解を示すことを控え、「分からない」とか「難しい」とかいった言葉で説明を終えることが多いのである。

 それはAIや中韓、あるいは国内上位の棋士といった「上」の存在や、囲碁の深奥幽玄を前にすれば本心でもあるのだろうが、何万時間という時間を囲碁に費やしているプロ棋士に対し、ファンは棋士然とした自信のある姿も期待している。プロである以上は、プロとして自信を持って自己を表現してほしいし、その中身をファンに分かりやすく、面白く伝えるような工夫をもっとしてほしい。


 囲碁普及について、新たな人口を増やす入口戦略ばかりが問われることが多い。もちろんそれも非常に大事なのだが、囲碁の経験がある、あるいは今囲碁をやっている人が、囲碁に興味を持ち続ける確率は意外と低い。

 今の囲碁界は、囲碁人口が減っているだけでなく、囲碁界に対する関心が高いファンの割合も低い。競技人口の統計では、囲碁のそれは将棋や麻雀の3分の1か4分の1ぐらいという数字が出ているが、SNSなどでの盛り上がり具合は10分の1かそれ以下である。人口が少ないだけでなく、界隈の活気も低いのである。盛り上がっていない界隈に、新たに参入しようと思う人は少ない。


 棋士個々の情報を積極的に発信し、棋士の魅力を伝える。「応援する棋士 vs そうでない棋士」のような対立構造をファンに提供できれば、囲碁界への興味を持続させやすいのではないだろうか。

 国際棋戦は最も対立構造を得やすい形式であり、今後も国際棋戦での活躍が続けば囲碁界の活発化が進むことは予想される。ただ、今回の盛り上がりは「19年ぶり」という力によるところも大きい。次回の優勝があったとして、今回ほどの盛り上がりは期待してはならない。


 国際棋戦や「男対女」のような対立構造ではなく、プロスポーツの基本となる対立構造も得られるよう、情報を発信し、界隈に活気をもたらす努力をもっとすべきではないだろうか。日本棋院、日本囲碁界の「演出下手」がSNSでしきりに批判されていることは、もっと重く受け止めた方がいい。

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