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かごめちゃんのこと

「じゃんけんで一番弱いのは、じゃんけんのルールが分からない人。わたしにはルールが分からないの。」

かごめちゃんというのは、『大豆田とわ子と3人の元夫』に登場する私のお気に入りのキャラクター。彼女は第7話を境に、あっけにとられるほど一瞬にして物語から姿を消した。

今日は彼女の話をします。

「みんなが当たり前に出来てることが出来ない。わたしから見たら、全員山だよ。山、山、山、山。山に囲まれてるの」

かごめちゃんのこの言葉に対して、とわ子は「私もあなたを取り囲んでいる山?」と聞く。
かごめちゃんは何も言わずに微笑む。

この作品の中で、かごめちゃんは異質な存在。

ドラマは、とわ子を中心に、とわ子を好きな元夫たち、元夫たちを好きな3人の女性たちによって繰り広げられる男女恋愛を軸に進んでいく。彼らはみんな、それぞれに葛藤や悩みを抱えながら、それでもちゃんと自立して生きてるし、恋愛を経験してきた人たち。
その中でかごめちゃんは、明確に彼らとは別の、枠にはまらない存在として描かれていた。

「この人のこと好きだな、一緒にいたいなって思っても、男女だから、どうしても恋愛になっちゃうでしょ?それが残念。別に理由はないんだよ、恋が素敵なのは知ってる。手をつないだり、一緒に暮らす喜びもわかる。ただただ、恋愛が邪魔。女と男の恋愛がめんどくさいの。私の人生にはいらないの。そういう考えがね、寂しいことは知ってるよ。実際たまに寂しい。でもやっぱり、ただただ、それが私なんだよ」

ここで彼女のセクシュアリティを勝手に私が断定するつもりはない。あえて括るならば、アロマンティックになるのだと思うけれど、彼女が断言しなかったことを、私が断言するのは横暴だと思うから。

それでも、この異性愛作品において、彼女が恋愛をしない生き方を選ぶ上で感じる生きづらさを語ったことの意味は大きい。可視化されないこと、それ自体がマイノリティ性で、セクシュアリティに限らず、人種や宗教など、マイノリティの集団に属する人は、フィクションの中で自分に引き寄せて共感できるキャラクターを見つけることが難しい。

この物語であってもきっと、恋愛をしないかごめちゃんに共感する人たちにとっては、彼女が異性愛の物語の中に確かに「存在」することが、それだけで救いだったかもしれない。

かごめちゃんの死

だから、かごめちゃんが一瞬にして物語から姿を消したこと、それは「人の死はなんの前触れもなく、理不尽に訪れる」以上の意味合いを持ってしまった。

どんな表現物も社会と繋がってる。たとえフィクションだとしても、とりわけマイノリティを描くってことは社会的な意味から逃れられない。それがどんな意図だったとしても。
前に、#asexualvisibilityday のハッシュタグと一緒にタイムラインに流れてきた「私はここにいるよ」ってツイートは、私にとってはいつまでも心に刺さって抜けない言葉。「いる」ことすら、想定されていない人たちがいること、言葉にならない。
きっとこの世界には、かごめちゃんに救われた人間がたくさんいる。だからこそ、あんな風に突然あっけなく姿を消されて、ドラマは構いなく進んでいくあの感じに、改めて社会から切り離された気持ちになる人が実際にいたこと、やっぱり無視できない。その気持ちはきっとフィクションではなく、切実でリアルな現実で、だからあの描写は暴力だったんだよって思うし、無批判にこの作品を褒めることはやっぱりできない。

「描かない」ということ

でも、私はやっぱり、かごめちゃんの死が詳細に語られない展開が好きだった。かごめちゃんがどんな最期を迎えたのかも、とわ子が理不尽な会談を投げ出した時本当はなにがあったのかも、本当のことは視聴者にはわからない。

なんていうか、坂本裕二の好きなところは、物語の登場人物をその物語のためだけに生かさないところ、とわ子が語りたくない出来事は描かなくていいんだよね。何を描いて、何を描かないか、そこの線引きをするということは、登場人物に敬意を示すということだと思う。

たとえばそれは、ハンガリーの映画"Those who remained"でもそう。
ホロコーストを生き延び家族を皆亡くして、ひとりで世界に取り残されているという、悲しすぎる共通点で繋がっている、孤独な医者と女の子のお話。この映画は、彼女たちの中にある大切な記憶や深い傷を乱暴に掘り起こしたりはしない。どこまでも丁寧で誠実な描き方には、監督の深い覚悟を感じる。

だから私も、かごめちゃんの死は、心臓発作だったのか、事故だったのか、自殺だったのか、そんな意味のない考察をするためにこの文章を書いている訳じゃない。芸能人が急に亡くなると、いつも思うことがある。人が突然に死ぬと、みんなそこに「物語」を見出そうとする。人の死だけがコンテンツとして一人歩きして、物凄い勢いで消費されて社会に還元されていく。もうそこにその人はいないのに。本人がどうして死にたかったかなんて、本人にしかわからないのに。

かごめちゃんととわ子

恋愛をしないかごめちゃんを、愛のない冷たい人だと思う人もいるかもしれないけど、私はそうは思わない。
これは全部私の想像だけど、かごめちゃんは、誰のことも傷つけたくなかったんじゃないかな。誰かを傷つけるのが何より嫌だから、無責任に人からの好意を受け入れたりしない。冷たいようで、本当は誰よりも優しくて強い。かごめちゃんは自分のことを、とわ子なしには何もできない人間だと思っていたかもしれないけど、寂しさを感じていながら、自分が満たされることより、誰かのことを思いやれるかごめちゃんは、本当は愛に満ちた人だと思う。

でももしかしたら、かごめちゃんにとって、3回結婚して3回離婚して、仕事では女社長をしているとわ子は、何より高い「山」だったのかもしれない。とわ子と一緒にいるのが辛いときも、かごめちゃんにはあったのかもな。そして同時に、それはとわ子にとっても、どこかまで近づくと、必ず距離を置かれるかごめちゃんについて、寂しさを感じる時もきっとあったんだと思う。

それでも、1人で信号のない横断歩道を渡れないかごめちゃんが、とわ子となら渡れる。かごめちゃんにはいつもとわ子がいるし、とわ子にはいつもかごめちゃんがいる。1人ではできなくても、一緒だから進み出せるということ、これ以上の愛ってない。

「ひとりで死んじゃった、ひとりで死なせちゃったよ、、」

とわ子の話は次回にしようかな。この世界に残された側の人間のこと、坂元裕二作品における「不在」に関する一貫した価値観について話そうと思う。すごく長くなってしまったので、中途半端だけれどこの辺で、、

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