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五胡十六国のやべーやつ 有名人編1

 こんにちは。
五胡十六国入門」です。
 昨日思わず同人誌づくりの愚痴を漏らしてしまいました。まぁ今後も漏らします。まるでわからん人間がひーこら言いながらのたうち回るのを記録しとくのって、たぶん役に立つと思うんですよね反面教師として
 はぁ、街の片隅のドブに詰まっていたい。
 
 というわけで本日より「めちゃくちゃ有名ってほどでもない、けど時代の牽引者、というか正直この辺くらいまでは基礎教養にしたい」という闇の願望ダダ漏れな十五人のうち五人を紹介します。

Cクラス 有名人

 ここまでは問答無用のビッグネームですし、それはここからも変わりません。けど、たぶんここから先になるとさすがに「この時代をあんまり知らないけど、なんとなく興味がある、かもしれない」人に届かせるには、届く確率が五分五分くらいなんじゃないかな、と思っています。

C−1 賈南風

 八王の乱を招くきっかけになったという意味では、旦那の恵帝よりも圧倒的にこの人を紹介すべきでしょう。恵帝皇后、賈南風。典型的悪女エピソードがこれでもかと用意されていて、そりゃまぁ最悪の結果を招いた皇帝の妻とか最悪な人間として描きたいよねと頷かされはします。ただ逆に、そういう立場の人間なら嫌でもネガティブキャンペーンを喰らいますよね、とも思うのです。恵帝の妻としての権力確保のための政争に奔走した、までは本当。あと恵帝の孫にして皇太孫の司馬橘を殺した「と糾弾されている」のも本当でしょう。本当に殺したのかとか、殺すまでの経緯で本当に賈南風が処罰されるべき振る舞いをしていたのかはわからないですけど。八王の乱とかいうグダグダな争いの頭にいる人についての情報が、どうしてグダグダでないのか、とは思わずにおれません。
 そして、これだけグダグダ語ったからには、これを言うことになるんです。物語としてはわかりやすい。晋書は晋滅亡から二百年余の時を経て編纂された史書であり、目立つ人物の評価については、唐を率いた李世民の史観を全力で意識しないといけないのです。「李世民にとって賈南風をこのように描くのが正しかった」、と最後に書いておきましょう。

C−2 陸機

 この人物のストロングポイントは陸遜の孫なこと。三國志に詳しい方なら陸抗の子供と呼んでも通じるでしょう。つまり三國志の末裔にして、にも関わらず晋のために戦い敗北、その罪を問われ殺された、と、どこまでもドラマの主人公なのです。それでいて当時において最高峰の文人と呼ばれています。ちょっと主人公属性が強すぎます。
 陸機は、どうして呉が滅んだのかを懇切丁寧な文書として残しています。ちょっとでも気に食わないところがあると全力で噛みつく裴松之先生が、三国志に註を附すのにまるでツッコミを入れていないことを思えば、それは後世の価値観からしても納得の行くものだったのでしょう。というか、そこに納得したと表明しなきゃ、晋に仕える大義名分が成立しませんよね。とは言えどこまで晋に心を預けたのやら。八王の乱のさなか、祖先とは違ってあんまり軍役の才能がないにも関わらず総大将に引っ張り上げられ大敗、その後謀反を疑われ兄弟や子供もろとも殺し尽くされます。華亭生まれの陸機、死に際し「もはや華亭の鶴の声を聞くこともないのだ」と述懐しました。

C−3 王敦

 呉の地にうまれたよそ者の国、東晋の建立を、武の面で大いに支えた武将。これで文の面をいとこの王導が支えるわけで、そりゃ巷で「王と馬と天下を共にす」という流行り言葉が生まれるわけです。なんとなく王導のほうが年上のイメージになりがちですが、実は王敦のほうが 10 歳年上。しかもまるで基盤のない地に乗り込んだわけですから、王敦のほうが主導権を握っていたのかも知れません。そういった次第で、元帝にとっても、特に武力の大きい王敦がいつなんどき政権転覆を図るかと気が気でなかったのでしょう。
 王敦の乱は二回あります。一回目は王敦の勝利に終わり、建康に乗り込んで王導の親友周顗を殺害の上、元帝に謝罪させています。しかもこの顛末にショックを受けた元帝は間もなく死亡。明帝が即位します。この明帝が当時 25 歳、政治家として十分な見識を備えており、反王敦派を糾合、あっという間に朝廷から王敦を締め出しました。慌てて王敦も再決起するのですが、間もなく死亡。その軍隊は解散させられます。
 ちなみにこの乱の鎮圧を指揮したのが庾亮で、実働隊として活躍したのが蘇峻。こののち庾亮が王敦の乱に関する論功行賞を渋るどころか蘇峻らを締め上げることにより、蘇峻の乱を勃発させてしまいます。

C−4 司馬睿

 東晋を立てた、というよりは、王導王敦に立ててもらった、と語るのが正しいのかもしれません。ただ、なら王導王敦が二人だけで健康にやってきたところで新しい政権を立てられたかと言えば、無理だったでしょう。それは晋(洛陽から黄河を渡った北の地域の古名で、司馬氏の本籍地)を国号にしていることからも明らかです。中原文化の威光あってこそ、江南の人々は王馬にかしづきました。
 そんな司馬睿は、司馬炎を起点にするとまたいとこの息子、となります。だいぶ遠い。祖父の司馬伷が琅邪王であったため、琅琊との縁ができました。琅琊王氏と繋がったのは封爵地ゆえの縁と、あとは単純に性格や才覚的なところでもウマがあったのかもしれません。このあたりの具体的なところはちょっとわからないです。何にせよ、その生まれ落ちたポジションが凄まじい幸運であったのと、それを活かすだけの手腕を振るうこともできたのでしょう。
 王敦をうまく使いこなしきれず、創業期間をうまく乗りこなしきれないうちに死亡したのは悔やまれるところです。もっとも、元帝が生きていようがいまいが蘇峻の乱は起こったのだろうな、とも思えてしまうのですよね。
 

C−5 石虎

 五胡十六国のやべーやつとして真っ先に名が挙がる人物、かもしれません。オモシロ逸話が引きを切らないのですよね。ただ晋書では意外とまともで(もちろん意外とを外すわけにはいきません)、その暴虐ぶりを強調した資治通鑑は晋書から五百年後の著作です。ちなみに資治通鑑が著された北宋といえば遼や金や西夏といった北方系国家にひどい目に遭わされており、つまり「北人」を憎む動機がめっちゃ強いです。そういう時代に書かれた史書による dis りなことを踏まえておくと、いくぶん冷静な評価は下せましょう。とはいえ暴君の暴れまわりって、物語的には美味しいんですよね。
 養父の石勒に、その強さゆえに愛され、多くの戦功を挙げました。臣下たちはみな「石虎はやばいので廃すべき」と石勒に進言しますが、石勒は却下。一方で石勒は息子を後継者に指名し、死亡します。この措置が気に食わなかった石虎、石勒の息子とか妻とか側近とかを皆殺しにした上で皇帝に即位。将軍としての実行力については太鼓判を押しうる手腕です。問題は、中華のロジックでは孝とか徳とかが皇帝としての評価基準になることです。石虎の行動に、孝は一切ありません。なら中華のロジック的に、石虎はアウト。ともなれば、石虎が史書にて良く書かれる要素は微塵もありません。
 漢人は、自分たちのロジックに沿わない人間を必要以上にこきおろします。まぁその辺はコミュニティを運営するにあたっては必要悪な手法なのかも知れませんが。ただ、「石虎の振る舞いがこれまでの中華において許容すべきではないたぐいのものだった」ことが、石虎の評価、ひいては晋書や資治通鑑における dis られ方に通じている、とも考えうる気はしています。
 あ、繰り返しますが、最悪の暴君として扱うのも、それはそれでいいとは思っていますよ? だって夏の桀とか殷の紂なんて、変に「実は最悪の暴君ではなかったのかも?」とか言われても、もろもろ面倒くさいじゃないですか。歴史を楽しむに当たり、通用している物語を満喫するのも、また悪からぬことでしょう。

 以上、有名人十五人のうち五人を紹介しました。明日はこの次の五人を紹介します。

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