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篠原悠希「霊獣紀」シリーズ

 こんにちは。五胡十六国入門です。
 本日は、自著とほぼ同タイミングで出た本についてのレビューをさせていただきます。

 中華ファンタジーの名手が歴史小説を発表! しかも時代は五胡十六国!

 ここでは特設サイトにリンクさせていただきますのん。

 ともあれ、五胡十六国ですよ! こんなん該当時代のヌタとして行くしかないじゃないですか! 

 行きました。結論です。


読んで。

五胡十六国に興味あるけど難しそうで二の足お踏みになってる方。

はじめに抑えとくと話が早い石勒と苻堅(と王猛)、ガチで三国志で言う曹操と劉備(と孔明)レベルだから。この両者を、歴史と物語とを両立してお書きになったわがままパックだから。


 以下これに関するよしなしごとです。



小説のフリした史実、史実に織り込まれた物語

 何よりもここである。霊獣紀、タイトルと表紙からは「この時代にテーマを借りたファンタジー、やや史実は据え置き」を想定していました。

 違いました。

 史実で物語をやるためのギミックが霊獣でした。

 本稿は、作品の内容そのものについては語りません。まるまるネタバレだし、ていうか wikipedia とか読んじゃえばほぼほぼあらすじだし、あえてここで特記する必要も感じないのです。では、特記すべきは?

 霊獣が史実の中に配置されることにより生じる視野、あるいは確保された歴史の空白、について。

 この物語、何がヤバいって、史実の時間軸操作を行いません。歴史物語って、物語の目的達成のためには、どうしても出来事を入れ替えたりしないと成り立たないし、人物の省略、あるいは増補なども行わねばなりません。

 そして霊獣紀には、ほぼ、それがない。
 なぜか?

 物語と史実との間に、守護獣が緩衝材的な役割を果たしているからです。「守護獣から見る英雄」としておくと、英雄に物語的齟齬と思しき動きが発生しても、守護獣が英雄に抱く疑問として収斂させることが叶う。いやほんと、矛盾が矛盾であるからこそ物語の構成要素として輝くわけです。この形式はずるい。いや、うまい。自分はここまで史実の裏打ちのためのギミックとしての超常現象を確立できてなかったなー。


 歴史は、当たり前ですが物語のように「すっぽりと、おさまる」ようなものではありません。作者氏は、おそらくその気になれば「すっぽりと、おさまる」よう、物語を編むことが叶うのでしょう。けれど本作は、あえてそこを外してこられた。

 自分も歴史で物語を書こうとしている人間です。歴史を強めると物語は味気なくなるし、物語を強めると歴史は退潮してしまいがちなんですよ。今回すごいと思ったのが、作者氏があえて「歴史」側に多く軸足をおかれていること。ここを言い換えると、こうなります。

「五胡ヌタ諸氏ー! 一線級の作家様が思いっきり五胡語りしてくださってるので集合!」

 いやほんと「歴史語り」なんですよ。そこに軸足も置かれたまま、物語にもお仕立てになってる。「どこまで歴史であることを失いきらないまま物語として成立させられるか挑戦された」のではないか、とすら思うのです。

 その意味で、本作は「五胡十六国は怖いので、ひとまず小説で…」という方におすすめしたい。またいい意味で「守護獣なしでも英雄のプロフィールは成立する」ので、五胡ヌタたちも「ほほう、こう解釈なされたのですな…コポォ」ができます。

 これが初篠原先生なので、ここから既存作も追ってみたいと思います。いや、たぶんこの作品、かなり大胆な一歩を踏み出されたんじゃないかなと思うのですよ。その辺を見てみたいのです。


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