東方アレンジのアルバムをフリーDLで公開しました。

タイトル通り、フリーDLで東方アレンジアルバムを公開しました。
↓で落とせます。
https://rbs.booth.pm/items/3134376
どうでもいいけどBoothってフリーDLだと一括DLできないのがちょっと不便。

さて、この『マヨヒガの残滓』アルバムに関してはTwitterでも多少言及はしているのですが、きちんと纏めておきたかったので筆を取っています。

まず、この作品はBoothの方にも書いてますが、水之江めがね氏が書かれた東方二次創作小説『博麗霊夢と幸福論』の感想として制作したものです。
もう少し、突っ込んで言うならあの作品を読んで感じたことが文章ではなく音楽として出力された、そんな作品となります。
なお、『博麗霊夢と幸福論』は現在、水之江めがね氏のHPにて無料公開されています。
http://i0-0i.sakura.ne.jp/index.html
無料で公開されてる作品の感想が有料ってのもおかしな話なのと、めがね氏にはtwitterのDMで感想として送り付けた際に、アルバム公開してもOKと許諾いただけたこと(性質上、三次創作になるのでここはきちんと話を通すのは当然)から、フリーDLでの公開となりました。
ジャケットがないのは『博麗霊夢と幸福論』という作品自体がこの作品にとってのジャケットと考えているからです。
でも、少数手焼きCD版頒布したい気持ちもあるけど、それはタイミングとか色々合えばやるかもね、ぐらいの感覚。

さて、今作について語る上でまずどうしても『博麗霊夢と幸福論』という作品には触れていかざるを得ません(ネタバレもあるので困るという方はブラウザバックしようね)。
それはこのアルバムが「感想」であるだけでなく、あの作品の構造が鳴っている音楽を構成している要素になっているのです。




さて、ネタバレ回避用のスペースも取ったので語りますか。

まず、『博麗霊夢と幸福論』という作品、私自身触れたのは2017年とかなり遅いため、この作品の評価はかなり出ていて、ゆかれいむ―――八雲紫と博麗霊夢のカップリングとなる作品の一つの究極系的な評価をされていて、実際に私の感想もそこに落ち着いています。
この作品の特異な所は、そんな評価を受けていても作品の大半は霊夢が別のキャラクターと懇意(一部そうとは言えないですが)になる、という展開です。ただ、最後まで読むとこの作品の視点はもしかすると八雲紫という特異なキャラクターによるものなのではないか、と解釈できます。
この作品の展開に焦れてみたり、ゾクゾクしてみたり、ほっこりしてしまう感情はもしかしたら八雲紫という存在が感じた感情を文章を通して追体験してる作品なのではないか、そう思ってしまったのです。
そう考えた時に、それまでその飄々としたキャラクターから一種のワイルドカード的な人智の及ばない遠い存在だった彼女がとても愛おしい存在に感じられるようになりました。

そして、その作品の構造をそのまま音に落とし込むのに4年程時間を掛けた訳です。この作品の八雲紫という存在を少し覗き見したくなったというか、音でどこまでキャラクターに迫ることができるか、そんなことを考えつつ制作していきました。
今回のアルバムではポストクラシカルというジャンルを取り上げていますが、これは作品的に彼女の感情はあくまで文章の行間に込められてる部分がありますから、派手なものだったり前面にでて主張する方向ではないだろう、そして読書時のBGMとしても機能するとなお良いだろう、ということでコンセプトに合致したジャンルだと思います。
そして、もう一つこのアルバムは決して技巧的なことはやっていないですが間違いなくピアノが主役です。私は基本打ち込みで制作するため、技巧的なことをやる方向で情感を込めることの意味を見出せませんでした。だって、その方向性であれば生演奏で私がとても及ばないレベルで出来る方がいるのですこの界隈には。
なので、ピアノの鍵盤を押し込む音や爪が触れる音、本体が軋む音に、それに釣られて弦が擦れる様な音をひたすら付加して、情感を込めていくことにしました。つまりこのピアノは八雲紫というキャラクターであり、彼女の視点として再解釈してみたかったのです。
そして、彼女が思い出の様に視てきた場面はいずれも、彼女は主役ではなく傍観者として存在していた訳です。だから、このアルバムはピアノが主役だけど原曲のメロディは鳴らしていないのです。
ただ、小説の最後にご褒美の様に添えられた素敵な話で、彼女が経て来た世界の変遷に一つの希望が彼女の中では一瞬とも言える様な短い時間ですが、かけがえのない時間が生まれます。だから、このアルバムの最後の曲は唯一ピアノが原曲のフレーズを(かなり崩してはいますが)鳴らしています。
そして、小説もこのアルバムもこのかけがえのない時間が終わると次の世界に向かうのです。彼女がそう定義したのだから。

そんな感じで、自分なりに『博麗霊夢と幸福論』という作品をリスペクトして作品を作ったつもりです。
そして、ここ2年ぐらいはそんな感じで、音楽ではないものを音楽に落とし込むというか、自分のオリジナリティ的な部分は度外視してこういう作品だからこういうジャンルや音に収束せざるを得なかった、そんな制約の多い作り方をしている気がします。

最後になりますが、こういう最も聴かせたい誰かがいる音楽を作ることができて、それが最も聴かせたい方に届けられる自分はとても幸せ者なのだと思います。ありがたいことです。

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