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空區地車の力学その83.25年度には各區に地車小屋が完成する⁈

五月五日の本宮は渡御から始まる。
本住吉神社の神輿を先頭に、お稚児さん、そして8台の地車が隊列を組んで住之江區にある御旅所まで進む。その後、8台の地車は住吉全區を巡行する。まだ地車を持たない觀音林地區は神輿を担いで隊列に加わる。かっては反高林地區も神輿で加わっていたが、今年から二代目地車で隊列に加わっている。

渡御に参加するお稚児さん’s
反高林區の2代目地車DEBUT!

本年度の「莵原かわら版」の表紙には本住吉神社奉賛会・武田会長が言葉を添えておられる。本年度の意気込み・想いと住吉の地車の歴史、来年度の巡行が大きく変わることが語られている。
その文章を引用しながら、私が聞いた先輩若中の年寄り連中からの口伝を交えて住吉の地車についてが今回のテーマだ。

安政(1855年〜1860年・孝明天皇)には、今の宵宮・本宮のカタチになったようだ。しかし、祭りのカタチは多少違うが、住吉でもっと古いとされる空區地車は天保6年(1835年)には存在していたという文献が見つかったことからもっと前から本住吉神社例大祭はあったと考えられる。
江戸時代の例大祭は旧暦の6月29日(宵宮)、30日(本宮)なので、太陽暦でいえば8月10日頃開催の夏祭りだった。
夏祭りの趣旨は疫病退散や無病息災だが、地車のルーツである京都の祇園祭とぶつからないように祇園祭後に行われていたのかも知れない(?)。

太陽暦は明治5年から使われるようになり、住吉の祭りは明治19年から太陽暦の5月12日宵宮、13日本宮になった。
現在60歳以上の若中の年寄り連中は、実際に5月12-13日の開催を経験しており、平日開催の場合は「小学校は半ドンになり、祭りに参加した」と証言する。

当時、空區の地車小屋は急な坂道の続く有馬道に面しており、空區の曳き手も不足していたがそれでも「山岡兄弟、桜井兄弟がいれば何とか動かせたもんよ」と集まれば自慢話をよく聞く。

昭和53年頃の空區地車、確かに若き日の山岡兄弟、桜井兄弟がいるではないか!

しかし、各區の曳き手不足は慢性化し、地車はあっても動かせない危機的状況にあった。
そこで昭和42年からは曳き手不足の打開策として平日開催ではなく、ゴールデンウィークの5月4日宵宮、5月5日本宮に繰り上げられた。

昭和46年には次の一手として、本住吉神社内に全區の地車が入る長屋型の地車小屋を建設し、全區揃って宮出し・宮入りを行なうようになった。
機運の盛り上げに一役買ったのはいうまでもなく、本住吉神社に行けば全ての地車が見られると、観客も増えていく。
観客が増えれば参加したいという若者も出てきて、これまでは各區在住者(=氏子)に限っていたが、誰でも参加できるようにした。
今では曳き手に運動部所属の大学生アルバイトを雇う區はない。

現在、本住吉神社内にある地車小屋前で宮出しを待つ7台の地車

例大祭はかっての賑やかさを取り戻し、昨年10月に再び各區に地車を戻すことが決まり、本年6月から各區に地車小屋を建設。来年2月までに完成させる運びとなっている。

空地区会館南側にある駐車場が空區地車小屋の建設予定地

従って来年度の例大祭は、4日に各區の地車小屋から蔵出しし、夜に宮入りする。
そして現在神社内にある地車小屋に一旦納める。
5日の本宮で宮出しして渡御を行ない、夜には各區の地車小屋に蔵入りするという手筈になっているようだ。
ただし再来年以降については、神社内にある地車小屋をどうするのかはまだ決まっておらず、解体となれば・・・難題山積だが、ひとまずは来年は神社内の地車小屋を使うことになっており、巡行コースについては今年度決定するとのことだ。

空區地車は子供綱を出してみんなで曳く

スポーツ根性漫画(スポ根もの)の主人公の動機は、その種目が好きということと、四の五の言わずにやってみなはれ!というエイヤっ精神論で成り立っている。
世話役は大変な1年にあると思うが、来年度に向かっていこうではないか!ヨロシコ‼