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空區地車の力学47.地車の名工・平間利夫氏

これもまた重鎮から聞いた話。
空區地車に施された彫り物には人物画が少ない。他地区の地車には戦記物など人物像が多用されているが、空區地車にはバクや獅子などが施されている。
明治初期は戦記物は禁止されていた。よって明治初期に大改修があったという文献との整合性があり、空區地車が東灘に現存する最古の地車である証である!との談。

空區地車は、2021年に明治以来幾度目かの大改修が施された。地車は氏子の寄付により維持されているので、景気の良い時や予算の有る時に改修が行なわれる。近年は積み立てが行なわれており、毎年小規模の改修や提灯など備品の新調は行なわれている。

2011年の大改修後の2022年例大祭前に試験曳きが行なわれた

2021年の大改修以前は大工の平間利夫氏が手をかけてくれていたが、前回の大改修を終え、亡くなられた。

平間利夫氏大改修による空區地車

私は、平間利夫氏を明治後期に活躍した名工・平間勝利氏(西區地車などを手掛けた名工)の弟子か子孫だと思っていた。

私の知る平間利夫氏は大工道具を積んだ軽トラックを住まいにして、自ら改修を請け負った地車小屋に横付けし、24時間体制の一人ブラック企業だった。さすが地車を愛する男だ。

しかし、平間利夫氏は平間勝利一門とは全くの無縁で、灘区~東灘区の酒蔵で酒を絞る「撥ね木搾り(はねきしぼり)機」を作っていた大工さん。
いまや「撥ね木搾り(はねきしぼり)機」は酒蔵記念館ぐらいでしか見られないが、酒を絞るので釘やビスは使えない。しかも重りをかけて絞るので相当の圧力がかかる。さらに酒が漏れない気密性も求められる。まさに大工の技量が問われるのだ。

撥ね木搾り(はねきしぼり) ※酒蔵吉田屋HPより

しかし酒絞りも機械化が進み、職を失った平間利夫氏はモノ作りの情熱を地車に注ぎ込むようになり、1986年、最初に手をつけたのが青木の地車だった。さらに、その腕が認められて青木の地車小屋まで建てたという。

地車大工の経験のない平間利夫氏が「撥ね木搾り(はねきしぼり)」で培った技術と情熱だけで作り上げた青木の地車の噂が広まるのにたいした時間はかからなかった。
瞬く間に、灘区~東灘区の地車を手掛けるようになった。
空區地車は言うまでもなく吉田區や山田區、呉田區、森區、中野區など次々と手がけ、昭和後期から平成の地車の名工にまで登り詰めた。

2022年10月9日東灘区政70周年記念巡行ニュースには
1986年、青木の地車大改修を平間利夫氏が手掛けたとある

平間利夫氏は名工と噂されても「軽トラックが住まい」は、亡くなるまで変わらなかった。毎年どこからかの區から要望があり、断ることができない平間利夫氏は受けてしまい、前回の空區地車の大改修ではパンク状態。空區重鎮らが総出で改修を手伝い、ギリギリ例大祭に間に合わせた。その後も平間利夫氏に、空區地車の改修を何やかやお願いしていた。

私も前回の大改修の折りに平間利夫氏にお会いしているが、軽トラックと地車小屋には常に空のカップ酒が転がっていた。
自分が手掛ける地車を見ながら晩酌するのが大好きだったのだろう。
時には地車の飾りから飛び出したバクや武将と木くずの中を駆け回ったり、時には江戸から明治の名工・黒田正勝師や開正藤師らと地車論を夜な夜な戦わせていたのだろう。

2021年の大改装までは残っていたバクの彫り物
平間利夫氏がこの場所に付けた

多くの地車はもはや原形をとどめていないが、空區地車には創建当時の飾りがいまだに受け継がれている。
その時々の若中の重鎮の想いや資金、たまたま出会った名工たちにより地車は形を変えていく。しかし地車を見た時の印象は「何も変わっていない」「変わらぬ味」を出しているのである。