選択

妥協というしかない。
なんでこんな大切な人生の岐路で、妥協してしまったのか、自分が情けない。
「三十までに結婚しようね」
陽子と約束していた。
一流企業に勤める陽子は同じ歳とは思えないほど、きちんとした生活を送っていた。
安定した収入と年二回のボーナスのおかげで、マイカーも持っているし、有給休暇で毎年海外旅行にも行っている。

「ちぃちゃん、イタリア最高だよ」
先日も一週間イタリア旅行を楽しんできた陽子が自慢げに話始める。
ベネチアングラスのお土産が陽子との距離をどんどん拡げてしまうのだ。
「いいなぁ」と羨ましがるしかできない。
「ミラノはさファッションの最先端だし、ローマは町全体が芸術って感じ。ナポリもすごく素敵なんだ」
「いいなぁ」イタリアどころか海外なんて行ったことがない。
イタリア旅行の自慢話は、私にはとても退屈で、陽子との温度差が拡がって、さっきもらったベネチアングラスを返したい衝動にかられてしまう。
「三十までに結婚するのって、かなり無理があるんじゃない?」
唐突に話を変えた。
「大丈夫だよ。次の見合いで決めるつもり」
「そうなの?」
「もうかなり絞り込んで頼んであるんだ」いつの間に、誰に頼んだんだろう?
「抜け目ないね」
陽子の結婚の条件は、高学歴で高収入、禿げてないっていうビジュアルも付け加えてる。
「いいなぁ」
私には注文をつけるなんて、そんな自信がない。
小さな印刷屋で働いて、お世辞にも美人とはいえないし、そもそも選り好みが出来る立場じゃないっていじけてるんだ。
陽子と違って貯金もしていない。
一年前に失恋して、恋に対しても臆病になっている。だいたい今更恋愛なんて時間がない。
誰かを好きになるなんてもうできないんじゃないかって思ってしまう。
「もっと自信もっていいと思うけど」
励ましてくれているのか、着々と目標に向かって進む陽子が少し憎たらしい。
「ポジティブでいこう」陽子の言葉が流れていった。

計画通り陽子はお見合いで生涯の伴侶をゲット。
「一目会った瞬間に、この人だって思ったわ」
「そんなことあるの?」
「あるんだね」
なんだか呆れる。
「そんで結婚式するの?」
「もちろん、ちぃちゃんも参列してね」
「うん」
「スピード結婚だからこれから忙しいぞ!」
なんだろう、陽子との距離がどんどん拡がっていく。焦ってる。三十までに結婚するのって、今の私には至難の業に思える。
「陽子はいいなぁ」これが口癖になってるようじゃ、まずいと思う。
そもそも、結婚ってしなきゃならないのかなぁと振り出しに戻ってしまう。

陽子に遅れること半年、私にもお見合いの話がやってきた。
私が子供の頃からお世話になっている近所の山口のおばちゃんからの見合い話。
「あんた、もう年貢の納め時よ。選り好みしてる場合じゃないわよ。とにかく家庭を持ちなさい」
「・・・・・・」
何も言えない。だけど、お見合い写真を見た瞬間『無理』と拒絶反応。
そんな私に山口のおばちゃんが気付いたのか、
「男なんて、大した差なんてないんだから、素直な人ならいいのよ。とりあえず今週末会ってみなさいよ」
「・・・」
何でこんな大切なこと、はっきり言えないんだろう。
『無理です』って一言云えばいいのに。黙っている自分がとても卑怯者に思えてしまう。こういう人が良いとか、こんな人は嫌だとかってきちんと伝えるべきだと頭では考えても、言葉が出ない。
 気が進まないまま約束の日時。相手が断ってくれることを期待してばかりいた。
「二人でゆっくり食事でもしなさいね」早々に山口のおばちゃんは帰ってしまった。
 見合い相手の佐藤さんは、にこやかに、とても嬉しそうにアピールしてくる。ズルズルとコーンスープを音をたてて飲んでいる。
どうしたらこんな下品な音が出るんだろう?そう思うと食事が進まない。この行為でもう無理。早く帰りたい。山口のおばちゃんごめんなさい。
 昔からそうなんだよなぁ。私が苦手な人から好かれちゃうんだよなぁ。心配は的中してしまった。
 山口のおばちゃんの手前、露骨に嫌だとは・・。
家まで送らせて欲しいと言うのを、一時でも早く一人になりたくて断った。
家に帰って、断りの電話を入れよう。そう思っていた。
 慣れない服と慣れない見合い。やっと家に帰ってホッとしたら電話が鳴った。
「あんた、先方はすごく気に入って、すぐに連絡あったわよ」
「はあ、実は・・・」
「とにかくお付き合いしてみなさいよ、結論は三度会ってからにしなさいよ」
「えーっ!三度ですか?」
「一度会ったぐらいでわからないでしよう。相手の良い所を見つけるつもりで会いなさいよ。安定した暮らしが大切よ。女手ひとつで頑張ってきたお母さんに孫の顔見せてあげなさいよ」
黙っていると、「相手は『気に入らないところがあったら何でも言って下さい』って言ってるのよ。想われて嫁いだ方が幸せなんだから。とりあえず三度は会いなさい。すぐに断るのは失礼よ。いいわね」
電話は一方的に切られてしまった。
どうして、自分の気持ちを表現出来ないんだろう。自分で自分が嫌になる。

翌日、見合相手の佐藤さんから電話があった。
「是非、結婚を前提にお付き合いしてください。今週末お会い出来ますか?」
「はあ」気が乗らない。というよりここではっきり断りたい。だけど、山口さんの言うことを聞いて、三度会って断わればいいんだ。もしかしたら三度会う中で、断るはっきりとした理由が見つかるかもしれない。

週末。佐藤さんはすごく張り切っていた。約束の五分前に車で迎えに来て、何も話していない母に挨拶している。
初めてのデートというノリノリの感じが私をどんどん憂鬱にさせる。私にとっては今日を二度目とカウントして、あと一回我慢しよう。
とにかく佐藤さんはよくしゃべって自己アピールしているつもりらしい。家族のこと、仕事のこと、趣味や休日の過ごし方。何を聞いても私の気持ちはどんよりしてしまう。というより耳が休んでしまって機能しない。
 まずい……。
 相手のペースになってしまう。なんとかしなくては、と頭では考えているけれど、言葉が出てこない。
佐藤さんは三年前にお母さんを亡くした。六人兄弟の末っ子で、お父さんは建具の職人だったらしい。八十三歳で百まで生きると豪語しているらしい……。何を言われてもどうでもいい。
自分の仕事は五年前に独立して、建築設計事務所で頑張っている……。特に趣味は無いがお酒を飲むのが好きで、競馬競輪、パチンコ、麻雀と一通りはやるらしい。やっぱりどうでもいい。
 一緒にいるこの空気がもう苦しい。帰りたい。こんなんじゃ無理。私の気持ち気づいて欲しい。
「今まで何度もお見合いいたんだけど、会ってももらえなかったから本当に嬉しいです」
 えっ!今までの見合い相手は会う前に断ってたの?
「今まで会って貰えないってどういう事ですか?」
 意地悪な質問をした。
「多分百キロ以上ある体重のせいだと思うんです。あなたが太ってるの嫌なら痩せます。嫌だと思う所があればなんでも言って下さい。なおしますから」
 痩せられるなら痩せとけよ!と言いそうになった。
どうでもいい……存在そのものが無理!一緒にいるのが苦痛。あのコーンスープの飲み方がそもそも気持ち悪い。どうやったらこの気持ちを伝えることが出来るだろう?
「あのー、体調が悪くって……。今日は帰りたいんですけど……」
 どこをどう走っているのかさえわからない。狭い車の中、空気がこもって、臭い。この場から逃げ出す事しか考えられない。
体調が悪いんじゃない、あんたが嫌なのだ……。
「大丈夫?」と聞かれて、
「結婚とか考えてないんで……」
やっと言えた。お見合いした時点で結婚を考えてたのに、佐藤さんが私は無理なのだ。
 しばらく沈黙が続いた。帰り道、助手席の窓を全開にして、流れる景色だけを見ていた。

 帰宅して母に相談した。
「いい人だと思うし、山口さんの紹介なんだから、とりあえず結婚しなさいよ」
「そんな……」
「駄目なら離婚すればいいじゃない」
 これが親の言う事なの?とりあえず?全然わかってもらえない。暗雲たちこめたままのどんよりした気持ち。
三十歳の私には断るっていう選択肢はないのかと、どんどん追い詰められていく。

「ちぃちゃん、どうするの?」
 心配しているのか、陽子が連絡をくれた。
「無理!理由とかじゃなくて、感覚的に嫌!」
「相手の人に伝えたの?」
「結婚する気は無いってことは言った」
「そしたら?」
「諦めませんって…‥」
「本気なんだね」
「嫌な所あったら治すとか言ってさ、百キロ超えの肥満が痩せられるのかよって言いたかった。マジ無理」
「ちょっと今回は手強いかもね」
「えーっ」
はっきりしない自分が一番いけないんだって事はわかってる。グズグズしている間にどんどん周りを固められて、逃げ場がない。
私は結婚に何を求めているんだろう?愛?だとしたら、佐藤さんじゃない。
安定した暮らし?社会的なステータス?だとしたら、これが最後のチャンスかもしれない。
他力本願。山口さんの言うことを聞いた方がいい。断っても断っても諦めない変な熱意に負けそうだ。私はずるい人間なのかもしれない。
先を越された形で三十歳に結婚を決めた陽子の披露宴、焦りがさらに大きくなっている。皇室でも、高嶺の花だと思っていた雅子さまが……。
雅子さまの「殿下を幸せにしてさしあげたい」との言葉に影響されそうだ。
私は幸せにして貰いたいと甘えているのに。
理想を追い求めてばかりいても仕方がない。私の三十歳は残り少ない。どうしよう……。
 こんなに悩むなんて、というより逃げたくなるなんて、人生って自分で切り拓いていくものだと思っていたのに、その自分があてにならないんだから参ってしまう。
山口さんに言われたとおりの三度目のデート。
今日こそはっきりさせようと意気込んでいると、連れて行かれたのは、佐藤さんのお父さんの所だった。古いボロアパートに住むお父さんは、寡黙で頑固そう、もう八十を超えていた。
「親父、結婚しようと思ってる人連れて来たぞ」
耳が遠くなっているお父さんに大声で言っているのを聞いて、面食らった。
断る気持ちなのに、これは卑怯だと腹が立つ。
だけど、お父さんはすごく喜んで、優しい眼差しを私にむけてくる。

「あんた、まだウジウジしてるんだって?」
山口さんから連絡があった。
意を決して今回の話はなかった事にして欲しいと伝えると、とにかく今から会いましょうということになって、山口さんの家に向かった。
「どうしても難しいの?」
山口さんは聞いてくれた。
「はい」
そう答えると、彼女は自分の結婚の事を話し始めた。
若い頃、野球選手と大恋愛していたこと。その人の手の指が大好きだったこと。けれど、派手な世界の人で女癖が悪く破局して、親の勧めで結婚したこと。結婚相手の手の指はずんぐりむっくりで好きにはなれなかったけれど、真面目で実直な人柄で幸せを感じるようになった。五年前にご主人が亡くなった時、今度生まれてもこの人と一緒になりたいと思ったそうだ。
「性格が素直な人が一番なのよ。あんたが利口ならあんたのペースになるんだからね」
そうかもしれないとは思う。自分がしっかりしていれば、進むべき方向がはっきりしていれば、なんとかなるように思う……。
だけど、生理的に無理なんだ。
「そもそも昔は許嫁って言って本人同士より家同士で決められてたのよ。それでもみんな添い遂げたんだか、あんたなら大丈夫よ」
山口さんは完全にこの話をまとめようとしているんだ。何を言っても無駄だ。彼女を説得する能力が私にはない。「あなたなら大丈夫よ」って、何が大丈夫なんだ?
前に母が言ってたように、「とりあえず結婚して、駄目なら離婚すればいい」
バンジージャンプを躊躇しているだけなのかも、飛び降りる覚悟が必要なのかもしれない。
山口さん、佐藤さんのお父さん、母を喜ばせてあげられるのは結婚かも?

「もうすぐ誕生日ですよね」
 佐藤さんから連絡があった。
「会ってもらえますか?」
 三十一歳の誕生日がやってくる、はっきりさせなくてはと会うことにした。
 心が決まらずウジウジしてる私を、近くのマンションに案内したのだ。201号室、中に入るとリフォーム済みでがらんとしていた。
「誕生日にこのマンションと婚約指輪をプレゼントしたくて、どうか受け取ってください」
「えっ!」
 嬉しいより、重い。選択の余地をなくしてしまって辛い。
 バンジージャンプを飛ぶ決意は出来ていたはずなのに、まだぐずぐずしてしまう。
「絶対幸せにします。結婚してください」
 絶対なんて信じない。返事ができず時間だけが過ぎていく。どうしようと頭の中でぐるぐる何かが動いている……。やっぱり断りたい!だけど、言葉が出てこない。
 佐藤さんはずっと返事を待ってい。
 あー、もう面倒くさい……。
 馬には乗ってみろ、人には添ってみろだ。母の言ってたとおり駄目なら離婚すればいい。めちゃくちゃな、投げやりな、打算的な気持ちで
「わかりました」と蚊の鳴くような声で、この場の決着をつけたのだ。
「う〜う〜」鼻水をすする音が、あのコーンスープを飲む音と同じだ。泣いて喜んでいる姿を見ると、どうしようもない後悔が押し寄せてしまう。
男のくせに、泣くなよ!

結婚という大切な決断を、私はあまりにもあやふやに、何かに流されるように諦めてしまった。ただ、人のせいには出来ない。私が自分で決めたのだ。
「昔の人はさ、婚礼の日に初めてあって結婚してさ添い遂げてるんだもん、大丈夫だよ」
陽子の的外れな、時代錯誤の助言が悲しく胸に刺さる。
「まぁ、頑張ってみるわ。佐藤さんに幸せにしてもらおうと思うのがそもそも間違いだよね。自分の人生なんだから、自分で切り拓いていかなくちゃ。幸せにになるぞ!」
「えらい!」陽子が拍手をしてくれた。
決意表明。三十歳には間に合わなかったけど、三十一歳で、重い腰をあげて、結婚する事にします!

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