父の匂い

「お母さんデートしようか」
あれから、まるで魂が抜けたように生気を失った母に、私はやっとの思いで声をかけた。
父が余命宣告を受けてからというもの、母はみるみる痩せていき、とうとう何も手につかなくなっていた。

『デート』というのは高校生の頃、進路や人間関係に悩み、半ば引きこもりかけていた私をなんとか外に連れ出そうと母が発したものであり、それ以来二人の会話にそんな言葉が出てくることはなかった。

あの日は朝からなんだか雨が降りそうな空模様で、外に出かける気分ではなかったけれど、あまり母がしつこく誘うので仕方なくついて行った。
「雨の匂いがするね~」
こんなどんよりした天気なのに母は嬉しそうに歩いて行った。
母がお気に入りだという喫茶店で、コーヒーとパンケーキを注文した。

「メイプルシロップのいい香りがする」
「あー良かった!鼻が効くなら大丈夫よ!匂いがわかるならまだやれるって事なの!匂いって大事よね~。あまり悩み過ぎないで~」

何気なく発した言葉に母は、よく分からない持論で私を励ました。

____あれから7年がたち、今度は私が『デート』に誘うことになるなんて。
だけど、あの日と同じパンケーキに、母は一口も手をつけなかった。そして家に着くまで私のかける言葉に一言も返事をしなかった。

本当にショックなんだな、ということと、それだけ母にとって父が大きな存在なんだということに私はこの時初めて気がついた。

 私なりに、あの日のように、母を励ましたかった。そして、父をちゃんと見送れるようにしたかったのに、

 医者が告げた余命よりも早く、父は逝った。
 母を憔悴し切ったまま、葬儀の日を迎えた。
 「佐綾ちゃん、『デート』に誘ってくれてありがとう。お父さんが誘うように言ったんでしょう?」
 「そうだけど、何でわかったの?」
 「七年前のあの日も、落ち込んでるあなたをみて、お父さん学校『デート』でもしてきたらどうだ、って言ってくれたのよ。あの喫茶店も、お父さんと初めてデートしたお店で、あの店のパンケーキをきっと佐綾も気にいるだろうから連れて行ってやれって。本当は自分が行きたかったんだろうけどね」
 無口で、仕事熱心で、家のことは全部母に任せきりで、私はあまり父と打ち解ける事ができなかった。
 でも、一番、私たちのことを心配して、想っていてくれたんだと、葬儀の日になってようやく父の見えない家族愛の大きさを思い知った。

 わかっていたら、もっと優しくできたんだろうか、父とも『デート』をすればよかった。

 「佐綾ちゃん、お父さんの匂いがするね」
 後悔して涙を流す私を励ますように、母は笑った。

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