夏休みが嫌い

 私は夏休みが嫌いだ。
宿題がいっぱいでるし、そもそも自由研究って何が自由なんだか意味がわからない。
うだるように暑いのに、私の家は一階の店にしかクーラーがない。
二階はトタンの屋根がお日様に暖められて溶けそうで、昼間はとても居られない。
扇風機はぬるい空気をかき回しているだけだ。
なんの予定もないから、一日がとても長い。

近所の亜美ちゃんは家族て毎年旅行に行って留守になる。
サラリーマンのしーちゃんの家はお父さんのお盆休みに実家とやらに帰省する。
久美ちゃんなんて、ハワイに行くことを自慢してるんだ。
正直うらやましい。遊ぶお友達がいなくなって、退屈がやってくる。

 私の家はラーメン屋で、特に決まった休みがない。だから、夏休みにどこかに出かけた事がない。
夏休みの計画といえば、学校のプールと隅田川の花火大会と、神社のお祭りぐらいだ。
絵日記を書くのに必要最低限の項目は何とかといった具合だ。

 一昨年の夏祭りで買ったひよこが鶏になった。
黄色くって、小さくって、可愛かったのに、トサカが出てきて、黄色がだんだん薄くなって、白くなって、目がキツイニワトリになった。

可愛いとは言い切れず、ちょっとショックだったけど、八百屋の兄ちゃんが、「縁日なんかのひよこかニワトリになるなんてねえ」と感心してくれた。
私かあまりかわいがらなかったのがいけなかったのか、ラーメン屋のお父ちゃんは鶏の首を絞めてスープのガラにしてしまった。
その様子を去年の絵日記に書いて、「おまえの父ちゃん残酷」「ペット殺し」とクラスのヒンシュクを買った苦い経験もある。

花火なんて、毎年代わり映えしないけど、上手に描ける様になった気がする。
綺麗だなぁと思うけど、花火を観に来た親戚が帰った後の静けさが、なんともいえなく淋しい気持ちを運んできて嫌だ。

お母ちゃんが「こういうのが祭りのあとっていうのね」と後片付けをしている時、ため息まじりに言っていた。
泳ぎは得意だから、四年生の最高、三級も合格している。だけど、まだ海には行ったことがない。

宿題も早々に終わらせてしまえば、やるべき事も特にないし、暇だ。
小学生になってからは夏休みが長いと感じてしまう。
特に学校が好きというわけではないけれど、夏休みになると学校が恋しい。
だから、やっぱり夏休みが嫌いなんだ。

「千鶴さん。話があるんだ」お父ちゃんが難しい顔でそう切り出した。
4年生の夏休みがもうすぐという時だ。
「なに?」あらたまってそう言われると緊張する。
店のテーブル席にお父ちゃんと向かい合って座った。
「お父ちゃん、今月いっぱいで、店を閉めることにしたんだ」
いきなりでびっくりした。

お父ちゃんとお母ちゃんが結婚する時に屋台のラーメン屋をはじめて、コツコツ頑張ってやっと小さなラーメン屋を、向島の見番通りに開店した。
私が産まれる前のことだ。
お母ちゃんの手作り餃子が評判で、お父ちゃんのラーメンも人気だった。
去年の区展で、働くお父ちゃんの貼り絵が金賞をとった。大きなフライパンをもってチャーハンを作るお父ちゃんを描いた。
お父ちゃんはすごく喜んでくれた。
「千鶴さんのためにも商売繁盛。頑張らなくちゃね」とはりきっていたのに。
「なんでやめちゃうの?」
「お父ちゃん病気になっちゃったんだ」
「病気って?」ものすごく重たい気持ちになった。
ものすごく不安な感じがする。
「病気って何なの?」いろんな事を聞こうとするけど、言葉がでない。

「大丈夫だよ」お父ちゃんは困った様子で、半分笑っているような、半分泣いているような顔で私の手をぎゅっと握った。
「しっかり入院して治さないとなく。千鶴さんが結婚して孫を抱っこするまでは死ねないもんな」
『死ぬ』って言葉が怖くて怖くて、涙がどんどんあふれてきた。
「お父ちゃん」かすれた声で、鼻水混じで、やっとお父ちゃんを呼んだ。
お父ちゃんは私を抱きしめて、何度も「大丈夫」と言ってはいたけれど、お父ちゃんも泣いていたと思う。

 四年生の夏休みが始まると、いろんな事が忙しく動き始めた。
お父ちゃんの入院の準備、店を閉めて、かっこよくいえばリフォーム。店だった一階が、これもかっこよすぎるけど、リビングになった。
お母ちゃんが生活のためにスーパーのレジのパートに出ることにもなる。

「ちぃちゃんも小学生だから、お手伝いお願いしますね」お母ちゃんに頼まれて、やる気満々。
ほうきをかけたり、洗濯物をたたんだり、朝はトースターでパンを二枚焼いて一人で食べた。お父ちゃんが毎朝焼いてくれてたから、なんだか淋しい。
今日はジャムにしよう。
お父ちゃんは「今日はジャムにする?海苔トーストにする?それともハムにしますか?」と聞いてくれる。
だけど、お父ちゃんは居ない。
「ちぃちゃんお母ちゃんの分もお願いします」
お母ちゃんと二人だけの朝。
 ラーメン屋の頃は夜遅くまで働いていたので、朝は遅かったお母ちゃん。
お父ちゃんとお母ちゃんが入れ替わった。
お母ちゃんは仕事帰りにお父ちゃんの病院寄って、買い物をして帰って来る。
 お母ちゃんと二人の夕食は、何故だろう暗い。
お父ちゃんの病気の事を聞きたいのに聞いてはいけない雰囲気なんだ。
 お母ちゃんは、馴れない仕事とお父ちゃんの看病ですごく疲れているんだと思う。

私にかまってる余裕がないんだとなんとなくわかる。
「そうだ、町会のサマーランド申し込んどいたからね。行っておいで」
「あんまり行きたくない」
サマーランドよりもお父ちゃんに会いに行きたい。お母ちゃんはどうしてお父ちゃんの病気のこと私に話してくれないんだろう。
「お父ちゃんがね、お土産楽しみにしてるのよ」
お母ちゃんはずるいと思う。お父ちゃんを引き合いに出すのは反則技だと感じてしまう。

「サマーランドのお土産買ってきたら、お父ちゃんに渡しに行っていいの?」
「うん、お父ちゃんちぃちゃんに会いたがったるよ」
私は近所では有名なお父ちゃんっ子だ。
『飴で煮る』くらい甘やかされているらしい。
確かに一度も怒られたことがないし、千鶴さんとさん付けで呼ばれている。いつもお父ちゃんと寝てるし、最近まで銭湯もお父ちゃんと入っていた。
だから、お父ちゃんが入院して、私の中の元気の素が薄れてしまってしんなりしてる。
お父ちゃんに会えるんだったら、なんとか口実が欲しかった。
「じゃあ、サマーランド行ってくるね」

町会で小型のマイクロバスを借りた。
運転手は八百屋のあんちゃん。
亜美ちゃんもしーちゃんいないけど、明とボーちゃん、洋子ちゃんも参加してる。
なんとなく、家族旅行に縁のない淋しい感じのメンバーだ。
子供より付き添いの大人の方が多いんじゃないかと思う。

会社を休んで、二軒隣の和恵ちゃんもいる。
八月の最初の日曜日、サマーランドはめちゃくちゃ混んでいた。

人工的に波がやって来る。スクール水着にレンタルの浮き輪、お父ちゃんに会いに行くことだけを考えて、人工の波に流されて時間が過ぎるのを待っていた。
まだ行ったことのない海ってこんな波がくるのかなあ。
お昼は町会で用意されたお弁当を食べた。
しばらくして自由時間。
「お父ちゃんにお土産買うんだよね」
和恵ちゃんが声をかけてくれた。

「何にしようか?」
和恵ちゃんはお母ちゃんからお土産代を預かっているからと、一緒に選んでくれた。
お父ちゃんの欲しがりそうな物は見つからない。
悩んでいると「このストラップいいんじゃない」と太陽の形のストラップを見つけてくれた。
「これにする」和恵ちゃんのおかげでなんとかお土産を決めることが出来た。

帰りのバスは和恵ちゃんが隣に座って、お父ちゃんの事を話した。
「お店閉めちゃったから残念だね」
和恵ちゃんは開店の時から知ってるんだと、お店の事を教えてくれた。

「美味しいって評判良かったんだよね。芸者衆もお座敷前にラーメン食べて景気つけたり、お昼なんて出前ですごく忙しかったんだよね。お母ちゃんの作る餃子も人気だったからさ、あーもう食べられないのかなぁって淋しいよね」
「お父ちゃん、何の病気なのかなあ?」
「心配だよね。でもきっと大丈夫だよ、元気になって帰ってくるよ」
浮き輪で浮かんでただけなのに、体がなんだかだるい。和恵ちゃんの励ましも流れていく感じで、だるさを大きくする。
「和恵ちゃん、眠くなっちゃった」
「うん、少し眠った方がいいね」
お父ちゃんの病気の事が不安で、怖くて、目の奥がじーんとなって、目をつぶりたくて仕方なかった。

「ただいま」家に帰ってもお母ちゃんはいなかった。まだ病院にいるんだろう。
早くお父ちゃんの所にお土産を渡しに行きたい。
お父ちゃんの病気は治るのか?何の病気なのか?
夏休みになってから入院するなんて、なんだか全部がつまらない。
「ちぃちゃん、遅くなってごめんね」
お母ちゃんがやっと帰ってきた。
もう小学生なのに、迷子になって迎えに来られたみたいでお母ちゃんの顔を見ると泣きべそになってしまった。
「ごめんね」ぎゅうっと抱きしめられると涙が溢れた。

翌日お母ちゃんと病院に行った。
お父ちゃんは個室にいた。
「千鶴さん。こっちにおいで」と私を抱き寄せた。少し伸びた髭がチクチク痛い。
だけど、お父ちゃんの匂いが懐かしくって、嬉しくって、昨夜泣いたばかりなのに、また泣いた。
「ちぃちゃん泣き虫になっちゃったね」
お母ちゃんに言われるまで泣いていることに気づかなかった。

「ねぇ。夏休みは毎日ここに来ていいでしょ?」
「あーいいよ。毎日顔を見せて下さい」
サマーランドのお土産をお父ちゃんは喜んでくれた。
「夏休み、どこにも連れて行ってあげられなくてごめん」
お父ちゃんはそう言うと具合が悪いようで横になった。
いろんな管がお父ちゃんの自由を奪っているように思う。
お父ちゃんは病気なんだなぁと私に知らせるように、小さな機械音が私の耳の奥に残っている。

お母ちゃんはパートをしばらく休むことにして、病院に付き添う事になった。
私を一人に出来ないからと、私も病院でお泊まりだ。

夏休みの絵日記は、サマーランドはやめにして病院のお泊まりを書こう。家族三人の時間が嬉しい。
お父ちゃんが元気なら、旅館でお泊まりしてる気分にだってなれる。
だけど、お父ちゃんの病院の簡易ベッドで初めて眠った夜。
お父ちゃんは死んでしまった。
何が起こったのか、どういう事なのか?
全く解らない。

お母ちゃんは泣き続けている。
お父ちゃんにしがみついて離れない。
お父ちゃんの体を誰にも渡さないってしがみついている。
お父ちゃんは『さよなら』も言ってくれなかった。
夜中に容態が急変して、危篤ってなって、そして死んだ。
こんなにあっけなく人って死んじゃうの?
私は、真っ暗な海の中に沈んでしまったみたいに、苦しくって、怖くって、何も見えなくて、何も聞こえなくって、ただただ泣いた。
心の中で「お父ちゃん」と何度も叫んだ。

親戚がたくさんやって来て、お通夜とかお葬式とか準備を始め、私は和恵ちゃんの家に取り残された。
和恵ちゃんはずっと私を抱きしめてくれた。
だから、私はずっと泣き続けた。
泣きながら、お父ちゃんとの思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。
幼稚園の運動会の時、徒競走ではりきりすぎて骨折したお父ちゃん。
私が高熱を出した時、「とにかく冷やしてください」と医者に言われ、クーラーがないから氷柱を何本も買って来て、扇風機を回して、床をびしょびしょにしたしまったお父ちゃん。
店の休憩時間になると「千鶴さん」と学校に来て、先生に注意されてたお父ちゃん。
銭湯で、大きな声で歌を歌いながら私を洗ってくれたお父ちゃん。
明にいじめられたといいつけると、店の中華包丁を持ったまま明を追いかけて、八百屋のあんちゃんに止められてたお父ちゃん。
花やしきに連れて行ってくれたお父ちゃん。
裏の家が家事になった時、消防車よりも早く駆けつけて、バケツリレーの先頭で指示を出てたお父ちゃん。
いろんな場面が浮かんで、涙がどんどんあふれてしまう。

「上を見ればきりがない、下を見たって仕方ない、だからまつすぐ前を向いて進むんだよ」和恵ちゃんのお母さんそう言った。
「お父ちゃんの愛情いっぱいに育てられたんだから、大丈夫だよ」とも言った。
励ましてくれているんだと思う。
でも、涙は止まらない。
現実には行った事のない海の底から戻ってこれない。
淋しくて、悲しくてしかたない。

お通夜がはじまっても、お葬式になっても、火葬場に行っても私はまだ泣いていた。
お母ちゃんも泣いている。泣き続けている。

お父ちゃんは焼かれて骨になった。
そして骨壷に入れられて、お父ちゃんの命は消えた。
これから、お父ちゃんがいなくなって、どうなってしまうんだろう?現実が受け入れられない。
不安がどんどん大きくなる。
哀しみが止まらない。
涙がどこで作られるのか、全然止まらない。
まっすぐ前を向いては進めない。
初七日というのが終わって、私の四年生の夏休みも終わった。

夏休みが好きになることはないだろう。と今は思う。
お父ちゃんを忘れない、お父ちゃんの声も匂いも、あの髭のチクチクした感触もずっと忘れない。
忘れたくない。
入道雲がもくもくわき出て、蝉の声がミンミン響いて、暑くて、退屈で、どうしようもなく悲しい夏休み。
お父ちゃんが逝ってしまった夏休み。
私はやっぱり、夏休みが嫌いだ。

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