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溝口政親が下向して、五嶋荒川の山王権現社人となった?

前回、澤海騒動後の藩主溝口政親は下向して九州五島の山王権現社人になったという話があると書きました。

昭和31年(1956年)、五島の郷土史家が書いた「わが〇〇家の祖先」があります。
〇〇のところは、現在もその家系に連なる方々がご健在なので今回は伏せておきます。
後日、この物語の必然として打ち明けることにはなりますが。

さて、17世紀の後半、大名の親族、ましていわく付きの人間が遠方に移動するとどのような関門に遭ったでしょうか。

①通行手形
これは、加藤明英が書けば簡単でしょう。
但し、その場合、幕府の正式な手続きが必要となります。
また、その移動の理由によっては、明英の立場(若年寄)に大きすぎる影響があります。
私は、他の者による手形と推察します。
どういう者の手形であるかは後で書きます。

②移動経路
江戸から陸路の場合、それぞれの番所でチェックされますから、必ず何処かで記録に残ります。
記録に残れば、地方史にどこかで残るでしょう。
現在、それは全くありません。
身分を偽っての移動なら、大名家の女子供連れですから無理筋です。
伊勢参りなら兎も角、長崎平戸までは絶対無理だと思います。
陸路でなく海路なら一定の条件で可能です。
海路も、舟番所が各地にあり、普通なら、大名の子女連れは無理ですが、平戸藩はこの時代、藩船を保有しており、藩主の松浦鎮信も参勤交代の際、大坂の平戸藩蔵屋敷まで船で移動し、そこから大名行列を組んで江戸まで陸路で移動していました。
つまり、溝口政親一行が平戸藩の手助けで、大坂の藩蔵屋敷から藩船で平戸そして五島に行くとしたら可能です。
江戸から水口までは、江戸屋敷を出て、国に帰るだけですから、陸路でも問題ありません。実際、逼塞を解かれたら、国元に帰れない理由は有りません。
水口から大坂まではどうでしょう。
河村瑞賢をご存じでしょうか。ちょうどこの時代に幕府の要請で、東回り航路や西回り航路等の海路や水路の整備事業をこの瑞賢が手がけました。1684年、大坂淀川の河口付近の安治川開削工事第1期が完成しています。
若年寄(加藤明英ではなく他の)も見分に下向したことが記録にあります。
そして、平戸藩蔵屋敷とこの安治川開削工事の現場はすぐ近くにあります。
政親が兄の代理で工事現場を見に行くことはあり得ることで、それを利用して、平戸藩が一行を乗船させることが出来たら溝口政親の五島下向は可能です。
舟番所も大名の持ち舟を厳しく検閲することはできなかったはずだからです。
大坂から西回り航路で下関、そして博多、平戸と行きます。

③移動の条件
水口から大坂までは溝口政親の名で良かったでしょう。
大坂から平戸五島へは、別名を使わないと、平戸、水口両藩に迷惑が掛かります。
さらに移動の大義名分が必要です。
ここで、一人の平戸藩出身の神道学者橘三喜が登場します。
溝口政親は若い頃から吉田神道にハマっていたようですから、橘三喜とは当然知り合いだと考えられます。
橘三喜が自分の子弟として政親を、松浦鎮信に紹介したなら、平戸五島の山王神社社人に据えることが出来たでしょう。
であるなら、大坂で社人としての政親を吉田神道関係者を使って「○○源兵衛政道」として手形発行させたことでしょう。

さて、この様に、移動は可能ですが、平戸藩にとって溝口政親を自藩に入れるメリットは何でしょう。
次回は、平戸藩、水口藩、さらに後に関係する五島藩の状況を説明してみます。

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