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私たちの9/11, 3/11

首の痛みに眠れぬ夜に、書いておこう。

9/11, 母も祖母も居たあの日。母は、祖母をハワイに連れて行こうと計画中だったが、戦争になるなら今はやめておいた方がいいわね、と取りやめた。結局母も祖母もハワイに行くことなくこの世を去ることになる。
私の知人はあの当時マンハッタンで働いていた。

私たちの3/11。
実家のマンションはかなりゆらり、ゆらりと揺れ。幼い甥の居る弟夫婦と連絡が取れず、気が狂うほど心配だった。父は足腰が弱ってきていたが気丈で、いざとなればあの子たちのところには歩いて行ける(車で一時間以上かかるほど離れているのだが)、道筋は確認してある、非常用の電子伝言板にこちらは無事だと音声を残しておけ、と頼もしかった。
失敗は車のガソリンがほとんど入っていなかったこと。駐車場のほぼ隣にガソリンスタンドがあるので、当時は価格の安い日にだけ入れに行っていた。揺れが収まって慌てて入れに行ったらとんでもない長蛇の列になっていて、すでに売り切れているのにみんなガソリンが来ると思って動かない状態。店員が追い払おうと苦心していた。初手の早い人たち、すごすぎる。近隣のガソリンスタンドまわったがどこも同じ状態で、わずかなガソリンを保存するために駐車場に戻り、それからずいぶん長い間、ガソリンが買えるようになるまで車は動かさなかった。ガソリン待ちの車列は店員が何といおうとも数日間止まず、ある日、手書きのガソリン来ませんサインと共に、すごいチェーンでスタンド全体がブロックされて終わった。
皆、気が狂ったように水やお米を買っていた。トイレットペーパーも。父は足腰が悪く、エレベーターが使えない状態では、実質的な戦力にはならない。コンビニにも、すぐ食べれるものはなんとコーン缶しかなくて。買って帰りました。おいしかったです。
翌日早朝、近所のスーパーで水が売り出されるという噂があり、オープン時間に外に出たら小雨が降っていて。放射能雨、という言葉が頭をよぎった。早朝の道、スーツにコートをはためかせて、お父さんたちがべビーカーを押しながら走っていた、何人も。スーパーに着いて解ったのが、赤ちゃんの居る人にしか水を売らない、ということになっていたので、出勤前のお父さんたちが証拠の赤ちゃんを連れて走っていたのだ。数日後かには、赤ちゃんの実物を連れて行かなくても、母子手帳など証明書があれば買えるようになったらしいが。
どうしてもな要件があり、動き出した電車に乗った日、電車の車内照明は落とされていた。混んでる電車の中、犬を入れたバッグを持った女性が、具合が悪そうだったのか、席を譲ってくれた女性相手に、地震があった時ワンちゃんがいかに不安そうで大変だったか、と堰をきったように話し始め、話の感じではかなり金銭的にゆとりのある、普段は電車に乗らないひとのようで、とにかくワンちゃんが心配で、とひたすら畳み掛ける話が薄暗い中聞こえてくるのが怖かった。ペットというのは、飼い主の自我の延長なのだろう。自分の手足のように大切なのだろうが、だからこそ逃げ場のない場所で滔々と話されると聞かされる方はうんざりだ。
3/11当日、弟は仕事で八王子のデパートに居た。デパートなら建物的にも、飲食物的にも大丈夫だと思うでしょ?なんとデパートは、飲み物一つ配らずに客も従業員も追い出して建物を閉鎖。渋谷在住の弟は、地元の人に避難所に行けば、と言われて頭にきて、コンビニでビールを買い、それを飲みながら歩いて八王子から渋谷まで帰った。道は歩いて帰る人でいっぱいだったと。携帯は全然つながらないし、幼い息子が心配で、早く帰りたかった、と。
当日、とにかくどこにも連絡がつかない中、気になる人には連絡。返事は来なかったけど後日、連絡をくれてありがとう、と伝えて来たひとは地下鉄に乗っていて。電車は止まり、暗い中、線路を歩いて駅に戻ったと。彼女はバスに乗って家に帰れた。
当日連絡がつかなかった人の中には、後日当日のことを以下のように聞かせてくれたひとも。
当日、彼女は仙台に出張していた。揺れが来た丁度その時、現地の工場方に案内されて開けた駐車場を歩いて移動していて。開けた場所だったので、怖くはなかったと。案内してくれていた人に、仙台はずいぶんと揺れるのですね、と言ったら、相手はいやこんなのは初めてです、と言い残して工場に走り去り。これは、ということで出張4人組で仙台駅へ。電車が動くかも、という噂が最初聞こえたので、しばらく駅に居たが、どんどん人が増えてきて。住民の人たちは情報を持っていて、座るための敷物や水を手に入れていたけど、出張組はもらえず地べたに座り込むことに。ここで、まだ電車がなんとか動くかもという根拠のない話が飛び交っていた段階で、出張4人組の中の一番裁量権のある人が決断し、タクシーをつかまえて、東京まで帰ってこれたと。その決断が少し遅ければ、何日も東京に帰れなかっただろうと。

仙台で医師になり、仙台で結婚した従弟のことは心配だったが、大変だろうからと言う父の判断で、直接連絡することは遠慮した。

あの震災の時期。ドトールの期間限定のティッカマサラ的サンドイッチは、私的ドトール史上一番おいしかった。同時期、スタバの限定ライムチョコレートケーキ、これも私的スタバメニューナンバーワン。ドトールもスタバもその後おいしいと思ったメニューはない。仙台に工場があると認識していたハニーズの店舗で、店員さんとちょっと話した時、店員さんが、うちの会社は平気ですよ、と頼もしく笑っていたの、印象的だった。

一方、再開したデパートの中が薄暗く、空調が切られていて、シャネルとか海外ブランドがものすごく厳重に盗難防止策を見せつけて閉鎖していたのは猛烈に感じ悪かったわ。万が一強奪にあっても大手は保険でなんともないはずでしょう?日本みたいに当時治安万全な国であれだけがっつり開いたデパートの中でこれ見よがしに閉鎖してるって、馬鹿にしすぎでしょう。

震災直後、うつくしいカードや手紙を年一やりとりしているカナダの友達が、もし日本が危ないなら、こちらに逃げて来て、と短い、でも真摯なメールをくれたことは、今思い出しても言葉が心の中で輝く。彼女はメールが嫌いで、その時しかメールをくれていないのだ。

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