虚無の救済、太宰と織田の場合

※この記事は文豪ストレイドッグスの考察です。

文ストの黒の時代には、太宰と織田が虚無を克服したシーンがある。
それぞれのシーンで彼らがどのようにして虚無から救われたのか、これまでの虚無の救済の話をもとに考えてみることにする。

太宰の場合

太宰は「生きる意味なんてない」という虚無に陥りながらも、どこかで「なにかあるのではないか」と思い、生きる意味を探し続けていた。彼にとって意味がないのに生き続けるのは苦痛でしかなかった。しかしそんな彼も、黒の時代の最後に織田と会話をすることで考えを改める。

太宰が虚無を克服するきっかけとなったのは、黒の時代の最後に織田にはっきりと生きる意味は「見つからないよ」と言われたシーンではないかと思う。

織田が見つからないというのなら見つからないんだ。それは織田が実際の経験をもとにそう言っているんだというのを太宰もわかっていて、だからこそ太宰は素直に聞き入れて、生きる意味を探すのをやめて虚無を受け入れることにしたのだろう。

その時に初めて、じゃあ虚無な人生だとして自分はその中でどう生きるべきか?という問いが生まれた。それが私はどうすればいい?という問いかけに繋がったのではないか。

アニメ版だと「見つからないよ」と言われてから「私はどうすればいい?」と太宰が答えるまでの間に長い沈黙があり、その沈黙の中でまさに太宰は虚無を受け入れようとしていた。
小説版だとその沈黙の間に「ほとんど生まれて初めて、心の底から知りたいことが出来た」と表現されていて、人生に向き合う覚悟ができたことが読み取れる。
その後「私はどうすればいい?」という問いかけに対して織田から答えを得たことで、彼は完全に虚無を克服し救済は完了する。

アニメ版ではその前後で彼の表情が全然違うのが本当にすごい。
人が虚無を克服する瞬間はいつだって心揺さぶられる。そういう救済をちゃんと描いてる文ストはやはり素晴らしいコンテンツだと思う。

織田の場合

織田が虚無を抱えていたのは少年時代である。探偵社設立秘話に登場する織田は「虚無の瞳」をしていると福沢は表現した。他にやることがないから殺し屋をしているだけで、殺しをすることに意味はなかったし、人を殺すことについても何も感じていなかった。

そんな織田が虚無を克服したのは14歳の時。
小説を読んだことと夏目に出会ったことがきっかけとなる。

織田は小説の下巻を読んだ後に、自分の脳が生まれ変わったように感じられ、世界がまったく違うものに見えたと言っている。つまりその小説は織田を救済した、ということなのだろう。

しかしよく考えてみると、実は救済という行為自体は織田自身がやったとも言える。
小説を読んだことや夏目の言葉はきっかけにすぎない。
「世界に意味なんてない」という見方から「世界は色とりどりで面白い」という見方に考え方が変わった。
それがこの時の織田が経験したことだと思う。
救済とは、言ってしまえば考え方の転換なのかもしれない。

中也だってきっかけを作ったのはアダムだが、救済をしたのは彼自身だ。囚われていたものを「どうでもいい」と手放した。それが彼の救済になった。
太宰の虚無の克服だって、ただの考え方の転換だ。世界は何も変わっていない。変わったのは彼の脳内だけ。
きっとそれは敦や鏡花などのあらゆる救済に共通している。

自分を救えるのは自分しかいない。
自分の考え方を変えることが、自分を救う唯一の手段だ。
それが「人は自分を救済するために生きている」という言葉が意味していることのように思う。
複雑な要素を紐解いていくと、最後にはシンプルで洗練された答えに辿り着ける、そういう理論は美しい。

黒の時代での「人は自分を救済するために生きている」や、BEASTの「己という獣を追うな」など、大事なことが織田の言葉には詰まっている。織田の最期の言葉は、物語のすべての土台となる思想であり、同時に読者への隠されたメッセージだとも受け取れる。
織田の言葉には、朝霧先生の魂の中でも特に核に近い部分が投影されているのかもしれない。


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