結局のところ私たちは「織田作の死」を愛している。

※この記事は文豪ストレイドッグスBEASTの考察です。
小説BEASTのネタバレを含みます。


私たちは織田作の死を愛し、織田作が死んだ世界を愛している。

彼は生によって与えられる以上の意味を死によって与えた。
何か大きな意味を持つ死は幸福な死だ。
生きることよりも重要性のある死というのはおそらく存在するのだろう。

だけど、死によって何かを伝えられる存在は稀有な存在だ。
死によって何かを伝えるためには、その人の人生そのものにそれだけの説得力がなければならない。

人はどう生きるべきかというのはよく語られるが、人はどう死ぬべきかというのはほとんど語られない。
だが、生の意味が重要であるように、死にどういう意味を持たせるかを考えることも重要で、織田作は見事に自分の死に意味を与えることができた、理想とすべき死に方なのだろう。

一方、BEAST太宰(以下B太宰)の死には、私たちの心に刺さるメッセージはほとんどない。
確かに彼は友を救うために命を捧げたし、一貫した信念を持っていたが、彼の死は織田作の死ほど胸を打つものはなかった。
誰かの人生を動かし得るほどのものはなかった。

織田作の死とB太宰の死の違いは何か?

意外にも、2人の死に共通点は多い。
・何かを守るための自己犠牲の死であること。
・人生に一貫した信念があったこと。
・自殺であること。(織田作のそれは違うという見方もあるが彼は自らの意思で死地に向かってるので一応自殺。)

本編では織田作だって守ろうとしていたのだ、太宰を。だけど彼が守ろうとしていたのは、決して太宰だけではない。太宰を通じて他者を、社会を守るつもりでいた。

一方、B太宰は織田作以外は心底どうでもよかった。
B太宰は「織田作のために」と思っているのかもしれないが、ぶっちゃけあれはただの自己満足だ。
だから彼の死は後味が悪い。

織田作は小説家になって生き続ける世界よりも、自分が犠牲となって太宰や社会を守る世界を選ぶだろう。自分が救われるために他が犠牲になる世界なんて望むような人ではない。
B太宰はそれこそ「濁りににごり」自分の感情に溺れているだけで、織田作のことを何もわかっちゃいない。

だからこそBEAST世界にはなんとも言えないような、歯切れの悪さというか、不完全燃焼感のようなものを感じるのだろう。
結局BEASTというのは、本編での織田作の死の尊さをより一層際立たせるためにあるようなものなのかもしれない。

本編世界を光とするならば、BEASTは闇。闇が深ければ深いほど、光は眩しく輝いて見えるものだから。



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